著者 : 陰山琢磨
林首相は、戦前から台湾自治を求めて、台湾議会設置請願運動を行ってきた活動家だ。ついには日本帝国議会でも請願の演説を行い、万雷の拍手を送られたこともある。だが、四五年。アメリカ政府から彼に渡された国は、琉球台湾連邦という、いびつなものだった。日本軍国主義を潰せばアジアでの問題は消滅する。広大な中国市場は、待ち焦がれていたアメリカと熱く抱き合うだろう、などと考えている連中。その夢見がちなニューディーラー達が支えるアメリカ民主党政権は、この地域の複雑性などまったく理解していない。彼らは、“ジェネラリッシモ”蒋介石が、沖縄を大琉球、台湾を小球琉と呼んでいた明代の故事を持ち出すと、あっさりとその島々の所有権を中国に認めた。そしていかにもアメリカらしく、沖縄と台湾をまず“民主的に統合”して、近代国家とし、中国にプレゼントすることにしたのだ。
「空の要塞・B17」の出現に衝撃を受けた帝国陸軍が、苦難の末に完成させた四発高速重爆があった。「火龍」である。機体の頑強さを利用し、対地対艦攻撃用に重火器を搭載した「空挺砲艦」は、改良型「三式重襲撃機」に至り脅威の進化を遂げた。この「超・空挺砲艦」は緊急出力1万馬力超のパワーが生む高速性と、戦闘機の火力では撃墜困難な重装甲で、敵重巡をも撃ち抜く火力を備えていた。「超・空挺砲艦」は、海軍の「特型陸攻」、反跳爆撃で対艦戦闘に猛威を振るう「火龍改」と並び、米空母機動部隊を攻撃し、多大な戦果を挙げる日本軍の航空戦力の要となった。米軍はこの「火龍一族」を殲滅すべく、急遽“火龍殺し”の「ガン・スリンガー」を開発した。B17の出力を強化し、大口径機関砲を多数搭載した空挺砲艦である。究極の進化を遂げた日米の「空の要塞」が激突、マリアナ沖で殲滅戦を繰り広げるが、最後に勝ち残るのは果たして…。
昭和二十年初夏。愛知県各務原、海軍航空技術廠。(なぜ、今ごろレシプロ戦闘機などを開発したのか。あと数年もすれば、ジェット推進の戦闘機の時代になるというのに)次期戦闘機の飛行試験。坂井三郎は嘆息しながら、二機を見やった。一機は中島飛行機と陸軍共同開発の試製重戦、キ-84。もう一機は海軍と三菱重工の対抗馬、A7M2。(戦訓は一撃離脱が正しい戦法だと教えている-)上空は薄くたなびく雲を除けば、明るい青一色。坂井は“本日の相棒”に向かい歩き出すと、ふと空を見上げた。零戦の勇士、富岳、有人噴進機、震電計画…そして、新たなる大戦。
大正六年三月に誕生した超弩級戦艦、山城。竣工当時世界最大だった戦艦も、昭和の代では二線級となりつつあった。そんな老朽艦に三度目の“お色直し”を施すことが決まった。艤装委員長に就任したのは、松田千秋海軍大佐。彼は時代遅れとなった大艦巨砲主義を代表するエリートである。「大砲屋」から「航空屋」へと戦争の主導権が移る中、航空母艦を中心とする機動部隊が海戦の主役となり、巨砲を擁す戦艦群は、表舞台から去りゆく運命が待ち受けていた。劣勢に立たされた大砲好きの楽天家たちは、ロートル艦の大改装と、砲術のプロの組み合わせに妙な期待を抱いた。新たなる山城の生涯が始まろうとしていた…。
圧倒的な物量。質的な凌駕。太平洋戦争中期以降の日本軍戦車隊は、米軍の機甲戦力の前に完膚なきまでに叩きのめされた。しかし、その悲劇を回避する方法がなかったわけではない。欧州やアフリカで戦車殺しの誉れも高いドイツの88ミリ高射砲を、太平洋戦争以前に日本軍も入手していたのだ。後はそれを自走砲化するだけで、太平洋の島嶼戦は一変するのである。