日本一の女
「あげなクソ婆、弔ってやらんでもいい、とか言うんで」東京の生活に行き詰まった私は、曽祖母の三十三回忌を口実に、大分の実家に帰郷した。曽祖母・匹田サダは、臼杵の裕福な家に生まれながら、昭和二年、数え歳二十のときに野津市村の農家に嫁いできたという。豊臣秀吉似のサル顔と歯に衣着せぬ物言いが災いして、実家を追い出されたらしい。しかし嫁いでからは次々と男の子ばかりを産み落とし、精米所を大繁盛させ女太閤様と呼ばれた。人に嫌われても決して家族を飢えさせず、懸命に働き続けた熱すぎる女の一生とはー。悩みも悲しみも癒えてゆく、人間賛歌!