墓の此方からの回想
百年の解読
四国のハイデルベルクからシャトーブリアンの「死活」を考える、フランス文学者の仮構のふるさと探求。
戦後のオートバイ屋は、飛行機乗りの成れの果て? ラバウル小唄からトンコ節へ、大衆歌謡とエンジン音が響く、昭和百年の家族史、産業叙事詩!
《回想録ならこんな具合に見た通りに書くから悩みがない。ところがそこに虚構を交えようとした途端、整合性が崩れ、嘘が露わになってしまう。そこが素人には難しい。数学で言う線形変換のように、平行移動とか、回転や反転とか、公式を使ってやれればいいのだが、小説作法でそのマトリックスはまだ知られていないようだ。
やや広い視野で見れば、吉野川は西日本では最も大きな川の一つで、四国三郎と呼ばれ、長さは二百キロメートルに近い。筑紫次郎と呼ばれる九州の筑後川は全長百五十キロメートルに満たないから、人間なら弟の方が格下ではあっても、上背では兄に勝っている印象だ。和歌山県の北部を流れる紀ノ川の上流部分も吉野川と呼ばれる。これは修験道の聖地たる大和南部の山々から、南朝の宮居があった吉野を巡って西流するので、四国の吉野川とは紀伊水道を挟んでやや左右対称のような関係にある。四国の側は下流まで吉野川だ。雅称として「芳水」と呼ばれることもあるようだ。だから皆吉は「芳水」の中流、南岸に位置する谷口町で、ここに流入する支流が皆瀬川である。
四国山地の山々でも修験道はかなり盛んだったと思われる。皆吉駅に降り立った山伏装束の修験者たちが、駅前から国道に出る連絡路で法螺貝を吹き、揃って登山バスの乗り場へと歩いていく姿がしばしば見られた。駅前の連絡路から国道を左折すると、うどん屋を二軒おいて、三つの定期路線を持つバス会社の乗り場と事務所がある。製材所の跡地と背面を接し、その向かいには大きな構えの商店がある。ここは元来魚屋であるが、板前を抱える仕出し屋であり、魚介類や氷などの卸売りもし、裏手には広い宴会場を持っていた。これは婚礼の式場にもなった。この二軒、バス会社と鮮魚店が駅前の「分限者」であった。》(本文より)