制作・出演 : 三代目
師弟競演の1枚。大看板・春団治は藝人としての育ちのよさを感じさせる色気が何とも言えない。「親子茶屋」で茶屋噺の面白さをタップリと味わえる。福団治の「疝気の虫」は元々上方噺だが、最近は東京の方が演じ手が多い。間のよさは今後を大いに期待させる。
昨年の春と秋に、大阪で収録されたもの。ぼーと聞いたら、肉声の意味とラップについての考察が頭の中を回った。で、なんと完全ワーディング(笑)付き。読みながら聞くと、物書きとして考えさせられるところがあった。以上、落語門外漢の感想でした。
録音された物を聞いても可笑しい上方落語というと騒々しい枝雀の破天荒さが思い浮かぶけど、米朝師匠の淡々とした語り口も良いもんだ。温かみがあって、もちろん洗練されてるわけだけど厭味がない。40分近く繰り返す可笑しみで笑わかす芸が見事。
上方落語の巨匠、桂米朝による新録音。江戸の話として聞いたことのある噺もあるが義太夫や鴻池家のネタなどは舞台が上方であってこそ生きてくるものであろう。30秒と置かずに笑いの連続という噺の面白さはもとより、師の姿がなくても声だけで十二分に楽しめる。面白い話に含まれる蘊蓄はとても頭に入りやすくてお蔭様でちょっとばかし利口にならせていただきました。懇切丁寧な解説を読めば何も分からんことはおまへんが時々サゲがむずかしゅうてかなわん。もっと沢山の落語をきかなきゃね。
「上方落語の粋」と単純にいいきるのはどうか。江戸に通じる米朝の粋はやはり「出」の問題だろう。その分、全国区になれる。この人の味に対する、上方人の本音の評価を聞いてみたい。とはいえ江戸の粋の原点は、京都の初代坂田藤十郎にある。その意味で現在、日本人の“粋”感覚の原点に桂米朝が存在しているのかもしれない。モッチャリした「骨釣り」より「野ざらしの方が似合う人だ」。
上方の歩く落語大全集のような米朝師の、ここに聴けるのは極め付けともいえる噺があつめられている。精密な人物・情景描写と軽みと遊びが、まあ絶妙だっせ。いずれもライヴで、89年から90年にかけての録音で、これが円熟ってもんじゃろか。
三代目・桂三木助が死ぬまで守り続けた“美学”を感じとりたいなら、やはり「芝浜」を聴くしかない。“江戸前”の味を精魂かたむけて追究した、その成果がここにある。ただ、その三木助美学に心をひかれるか、反発を感じるかは、もちろん聴き手の自由だ。「三井の大黒」は昭和35年11月の収録。その二ヶ月後に黄泉へ旅立った。つまり、最後の高座がこれというわけだ。さすがに辛い。