ジャンル : 演歌・純邦楽・落語 > 純邦楽・民謡
「大城志津子の作品を多くの人に知って欲しいという願いが強くありました。そして直接の最後の弟子である事を誇りに思います」--石川陽子 石川陽子にとっての初のソロ・アルバムとなる本作は、師匠、大城志津子に捧げる作品となっています。 沖縄民謡界の重鎮の一人にして、大いなるリスペクトを受け続けている大城志津子。 石川陽子が大城志津子に弟子入りしたのは23歳の頃。自宅に住み込み、寝食を共にし、歌と三線を学びました。その中から石川陽子が学んだのは、 歌・三線はただ歌い弾くものではなく、語るように歌い弾くものだと言うことです。このことはまさに沖縄民謡の真髄であり、 それを大城志津子から深く体得したのです。今作は大城志津子の直接の、そして最後の弟子である石川陽子が、師匠が創作したオリジナル曲と、 長くステージでレパートリーとして歌って来た曲を、より多くの人に届けたいという思いと、師匠から受け継いで来た教えを自分なりの形で 表現したいとの思いから生まれました。さらにアルバムの冒頭では師匠に捧げるオリジナル曲を創作しました。 “ガジュマルの木は(大城志津子先生は)しっかりと 土に(沖縄民謡界に)根を張って 枝(私達弟子は)見事に栄えている” (「大木ガジュマルや」の一番の歌詞対訳) 「師匠は知る人ぞ知る存在ですが、沖縄民謡界にしっ かりと根を張って生きている、まさにガジュマルの木 の様な人だと思います」 ─石川陽子 本作では大城志津子と長く活動を共にして来た喜久山節子がレコーディングのみならず、今回のアルバムを制作するにあたり、 石川陽子に歌・三線の指導も行いました。また、大城志津子門下の金城恵子も島太鼓で参加しています。 ■石川陽子プロフィール 沖縄県伊平屋島出身。小学校から高校までを大阪で過ごす。大阪では、祖母の経営する沖縄料理屋にて三線をおもちゃ代わりに育った。 高校生の頃には近所の民謡研究所に通うも、次第に故郷沖縄で本格的に学びたいと思うようになる。二十三の頃沖縄に戻り、琉球民謡協会師範の 大城志津子師匠の門を叩き、住み込みしながら沖縄音楽を学ぶ。その後、大城志津子門下の情歌の名手・金城恵子師に付き、歌、三線、 ステージでの聴衆との駆け引きなどを身近で学ぶ。また、異色の芸歴を持つ舞踏家・多嘉良和枝師のもとで発声や踊りの所作などの指導を受け、 琉球芸能に邁進する。現在、琉球民謡協会教師の資格を持ち、本土と沖縄を行き来してライブと三線指導者として所狭しと忙しく走り回っている。 石川陽子のスタイルは、古くから歌い継がれる楽曲を中心に、語り掛けるように歌い、聴く人の心に直接メッセージを投げかけ、 また色艶のある声で歌い上げる女性らしい美しさを持つ一方で、実直で芯の強い男勝りな部分を併せ持ち、力強い三線や太鼓を奏でる姿と併せて、 その個性的なスタイルはライブに訪れた人を魅了してやまない。 ■大城志津子について 1947年八重山は石垣市の生まれ。3、4歳の頃から父親の弾く三線を意識していたという。なお、彼女の伯母(父の姉)はマルフクレコードを設立した 普久原朝喜の最初の妻、鉄子である。5歳の時に太鼓、6歳で踊りに三線を習い、「浜千鳥節」を弾く。中学校を終えると、 民謡歌手を目指して1人で那覇に出る。その後はひたすら歌と三線を練習する日々を送る。16歳で初のレコーディング。「朝花」が大ヒットする。 以降レコーディングの機会が増え、テレビやラジオにも出演するようになる。1965年には民謡研究所を設立し、本格的に弟子の育成をする。 1975年には伝説となった民謡クラブ「ハンタ原」をオープン。2005年まで続ける。 以降今日に至るまで80曲以上のオリジナルを手掛け、多くの弟子を育成する。尚、三線は、六弦のもの(六線)を弾いている。 ■レコーディング・メンバー 石川陽子:歌、三線、指笛 喜久山節子:三線、三板、歌、囃子、鈴 金城恵子:島太鼓、三板 新城慎一:六線 山城 香:囃子(3、4曲目)、鈴(3曲目) 吉川 徹:三線(7曲目)