著者 : アン・ラドクリフ
都パリを逐電したラ・モット夫妻は、荒野の一軒家で保護した美しき娘アドリーヌとともに、鬱蒼たる森の僧院に身を隠す。彼らを待ち受けるのは恐るべき悪謀ーー 今なお世界中で読み継がれる名著『ユドルフォ城の怪奇』に先駆けて執筆され、著者の出世作となったゴシック小説の傑作。刊行から二三二年を経て本邦初訳! 袖口にスリットが入ったグレーのキャムレットの衣装は、彼女の容姿を引き立てこそすれ、飾り立てるものではなかった。開いた胸元には乱れた髪が覆いかぶさり、慌てて纏った軽いベールは、混乱していたためか、上げられたままになっていた。(…)この荒涼とした家、そしてそこに巣くう粗暴な輩たちとはあまりに対照的な、優雅で洗練されたその様相を見るにつけ、彼は、これは実人生での出来事というよりは、想像力が生み出したロマンスなのではないか、という気がしてくるのであった。彼は何とか彼女を慰めようと努めたが、その誠意あふれる同情心に疑いを差し挟む余地はなかった。娘の恐怖心は徐々に収まってゆき、悲しみと同時に感謝の念も湧き上がってきた。 「ああ、ありがたや……」彼女は言った、「わたしをお救いくださるために、天が貴方様を遣わしてくださったのですね……どうか貴方様に神の報いがございますよう……わたしには貴方様以外、この世に一人の味方もないのです……」(本書より)
愛する両親を喪い、悲しみに暮れる乙女エミリーは、叔母の夫である尊大な男モントーニの手に落ちて、イタリア山中の不気味な古城に幽閉されてしまうーー刊行から二二七年を経て、今なお世界中で読み継がれるゴシック小説の源流。イギリス文学史上に不朽の名作として屹立する異形の超大作、待望の本邦初訳!「あれだ」何時間ぶりかで口を開いたモントーニが言った。「あれがユドルフォ城だ」 エミリーはモントーニが領有するとされている城を見つめ、暗い畏怖の念をおぼえた。というのも、今は夕陽に照らし出されてはいるが、その雄麗なゴシック様式や崩れかけた鈍色の石の城壁は何とも陰鬱で荘厳な雰囲気を醸し出していたからだ。彼女が見つめていると、城壁に当たっていた陽が薄れてゆき、暗い紫の色合いが残されることになった。山肌に薄靄が立ち昇ってゆくと、その色合いはさらに濃さを増して広がっていったが、一方、上部の銃眼胸壁は依然として夕陽に輝いていた。やがてその銃眼からも光は薄れてゆき、城全体が夕暮れ時の厳かな薄闇に包まれていった。人気もなく、ひっそりと壮麗に佇む城はこの場一帯の君主の如き様相を漂わせ、その孤独な支配に闖入せんとする者を威嚇しているかのごとき趣であった。夕闇が深まってゆくにつれその姿形も朧になり、不気味さを増していった。(本書より)
悪漢の魔の手を逃れ、故国フランスに辿り着いたエミリーは、かつて結婚を誓ったヴァランクールと痛切な再会を果たす。彼が犯した罪とはなにかーー刊行から二二七年を経て、今なお世界中で読み継がれるゴシック小説の源流。イギリス文学史上に不朽の名作として屹立する異形の超大作、待望の本邦初訳! どれほど彼女がモントーニの悪辣さに苦しめられたかを聞くにつれ、憐れみと憤りの感情が交互に彼の心を支配することになった。彼女はモントーニの行為を語るにあたり、その罪深さを誇張するというよりは、むしろ控えめに話したのであったが、それでも、それを聴いていたヴァランクールは、一度ならず椅子から立ち上がり、その場から歩み去っていった。それは、怒りというよりは、自責の念に駆られてのことのようであった。「わたしの苦しみはもう終わったのです」彼女は言った。「だって、モントーニの暴虐から逃れることができたのですから。そして貴方も元気そうだしーーどうぞ悲しそうなお顔はなさらないでくださいまし」 ヴァランクールは前にもまして動揺した。「エミリー、僕は貴女にふさわしい人間ではない」彼は言った。「ふさわしい人間ではないのです……」(本書より)