著者 : 竹久夢二
矢崎忠一は、最愛の妻を殺しました。 陸軍中尉はなぜ、親友の幼馴染である美しき妻・雪野を殺したのか。 問わず語りに語られる、舞台女優・沢子の流転の半生と異常な愛情。 大正ロマンの旗手による、謎に満ちた中編二作品。挿絵106枚収録。 どうした訳だろう。彼女(あれ)は、あの晩に限って、今まで一度も見せたことのないような厳然とした顔をして言った。 「あなたは取返(とりかえ)しのつかないことを仰言(おっしゃ)いましたわね。しかしあたしはもう覚悟をきめました。あなたはあたしの良人(おっと)です。さ、どうでも気のすむようになさい」(「秘薬紫雪」より) 私は一人の不思議な、風のような女の知り合いになった。(…)其日(そのひ)にも私は例の隅の卓(テーブル)で、食後の煙草(たばこ)をふかしていたのです。一人の見知らぬ女が、恰度(ちょうど)私と反対の隅に坐ってじっとこちらを見ているのです。特に注意を惹(ひ)く女でもなかったのですが、一見非常な苦悩を湛(たた)えて、世にもたよりないと言ったようなその眼が、じっと私を瞶(みつめ)ているのです。(「風のように」より) 秘薬紫雪 風のように 解説(末國善己)
どうぞ心配しないで下さい、 私はもう心を決めましたから 天才と呼ばれた美術学校生と、そのモデルを務めた少女の悲恋。 大正ロマンの旗手による長編小説を、表題作の連載中断期に綴った 関東大震災の貴重な記録とあわせ、初単行本化。挿絵97枚収録。 葉山はお幹を帰してから、長椅子に腰かけ一つ所を見詰(みつめ)ながら、坐っていた。葉山は若い娘の泣くのをはじめて見た。洪水のような彼女の涙に誘われて一所に押流されそうだった自分を、危く踏止(ふみとど)まった、生れて始めての経験について自分を省みた。(…) それにしても、彼女が画室を出る時「私もう決心しています」と言った言葉を、葉山はふと思い出した。 「お幹は死ぬかも知れない、それはもう理窟ではない、これは放ってはおけない」そう思いつくと、葉山は弾かれたように椅子から飛上がって、そこそこに着物を着換(きがえ)て外へ飛出した。お幹が、彼から遠く遠く去って行ったであろう路を歩きながら、彼は非常に感傷的(センチメンタル)になって路を急いだ。(本書より) 岬 東京災難画信 解説(末國善己)
画(か)くよ、画くよ。素晴しいものをーー 大正ロマンの旗手が、その恋愛関係を赤裸々に綴った自伝的小説。 評伝や研究の基礎資料にもなっている重要作を、夢二自身が手掛けた 134枚の挿絵も完全収録して半世紀ぶりに復刻。ファン待望の一冊。 解説:末國善己 「なかなか画けない。こんどはすっかりモデルを使わずに、頭と感覚だけで画いて見ようとおもっているんだが、どうもやはりぼくには写実の手掛りがないと構図がつかないんだ。そう言えばぼくの生活にもその傾向があるね」 「どういうことなの」 「つまりひとりでは寂しくていられない人間なんだね」 三太郎は吉野の顔を見ないで、それを言った。吉野は黙っていた。そして、暫(しばら)くして言った。 「これからはお出来になるわ、きっと」 それは三太郎に対する愛の最初の言葉でもあり、遠く家を捨て、男の許へ身を寄せた娘の、自分に言いきかせる、誓言(せいごん)でもあった。(…) 「画くよ、画くよ。素晴しいものを」(本書より)