著者 : 高野楽山
父信虎を追放してその領国体制を無傷で引き継いだ若き信玄は、文武両道に通じたエリートであり、源頼朝のように謀略性に富み、粘り強く且つ慎重な性格で、複雑な思考の持主であった。諏訪攻めを手始めに信濃全土の征服に向かって合戦を繰り返し、ついに越後の謙信と対決することとなった。この「信玄の巻(上)」は、諏訪攻めから川中島の大激戦前夜までを書いたものである。
戦国の英雄信玄は、当初、北国経由で上洛を考えていた。謙信と四つに組んだ理由もそこにある。しかし謙信を打ち破ることが出来ず、やむをえず方針を転換、駿河を攻めることとなった。だが、そこにもまた大きな障害があった。嫡男義信との対立・北条氏との同盟関係の崩壊がそれである。信玄は、その障害を無理に乗り越えていった。それは織田信長の動向に大いなるあせりを感じていたからである。合戦に明け暮れていた信玄は、三方ケ原の戦の後に四面を敵にしたまま陣没したが、このことが勝頼に過分の重荷を背負わせる結果となった。
信玄の父信虎の生涯は、波瀾に満ちた81年であった。25年の歳月を費して乱国を統一し、甲府を開いて武田家を守護大名から戦国大名へ押し上げた。国主であった期間は、信玄よりも長く、信玄に国外へ追放されて、なお33年間を異境で生き抜いた。信玄卒去の報に接して、京都からその老躯を信州高遠まで運んできた。この「信虎の巻」は、その誕生前夜から駿河へ追われるまでの辛苦に満たち50年を書いたものである。
信玄の父信虎の生涯は、波瀾に満ちた81年であった。25年の歳月を費して乱国を統一し、甲府を開いて武田家を守護大名から戦国大名へ押し上げた。国主であった期間は、信玄よりも長く、信玄に国外へ追放されて、なお33年間を異境で生き抜いた。信玄卒去の報に接して、京都からその老躯を信州高遠まで運んできた。この「信虎の巻」は、その誕生前夜から駿河へ追われまでの辛苦に満ちた50年を書いたものである。