音楽むすび | 制作・出演 : ウカシュ・ボロヴィチ

制作・出演 : ウカシュ・ボロヴィチ

アンジェイ・パヌフニク:交響的作品集 第4集アンジェイ・パヌフニク:交響的作品集 第4集

パヌフニク:交響的作品集 第4集 ワルシャワで生まれ、パリ、ウィーンで学びロンドンで生涯を終えた作曲家パヌフニク。cpoからは、これまでに3枚の管弦楽作品のリリースがありました。  交響曲第2番は1957年に書かれたもので、1942年のワルシャワ蜂起における犠牲者の為に書かれた鎮魂のための交響曲です。初期の作品ということもあり、まだまだ調性に支配されたどちらかというと古典的な作品です。第3番は最もよく演奏される曲で、宗教心と愛国心に満ち、現代的な響きの中に清冽な表情も見える作品です。1988年に作曲された第10番はシカゴ交響楽団の創立100周年記念委嘱作品で、凝縮された内容を持つ15分程の短い交響曲です。(CPO) 【収録情報】 パヌフニク: ・交響曲第2番『悲歌の交響曲』 ・交響曲第3番『神聖な交響曲』 ・交響曲第10番  ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団  ウカシュ・ボロヴィツ(指揮)  録音時期:2010年  録音方式:デジタル Powered by HMV

アンジェイ・パヌフニク:交響的作品集 第3集アンジェイ・パヌフニク:交響的作品集 第3集

アンジェイ・パヌフニク:交響的作品集第3集 1914年ポーランド生まれの作曲家パヌフニクの管弦楽作品集第3集です。ワルシャワ、パリ、ウィーンで学び、ウィーン時代には尾高尚忠と交友があったため、彼の二男である忠明氏がパヌフニク作品を積極的に取り上げていることでも知られています。ナチス〜ソヴィエト時代、ポーランドでも彼の作品を取り上げることが禁じられたため、イギリスに亡命、その地で生涯を終えました。  彼は10曲の交響曲を作曲し、そのほとんどにタイトルが付けられています。この第6番は『神秘的』と名付けられていますが、これは「数字の6が持つ神秘」について書かれています。短い音形が綴られていきますが、どれも根底に6が潜んでいます。それは6拍子であったり、6つの和音であったり。まさに神秘に彩られた作品です。他に珍しい曲が3つ収録されています。(CPO) 【収録情報】 パヌフニク: ・神秘的交響曲(交響曲第6番) ・秋の音楽 ・ショパンへのオマージュ(フルートと弦楽合奏のための5つの小品) ・ラプソディ  ウカシュ・ドゥルゴス(フルート)  ポーランド放送交響楽団  ウカシュ・ボロヴィツ(指揮)  録音時期:2009年  録音方式:デジタル Powered by HMV

パヌフニク:管弦楽作品集パヌフニク:管弦楽作品集

アンジェイ・パヌフニク管弦楽作品集 時代に翻弄された悲劇と栄光の作曲家 近現代音楽ファンにはおなじみの作曲家アンジェイ・パヌフニク。プロムスでもとりあげられ人気を博すほど聴きやすいものも多い彼の作品ですが、表面の格好良さの陰に哀しみが秘められるなど、その味わいは複雑で魅力的。  今回登場するアルバムには、有名な『悲劇的序曲』や『英雄的序曲』『夜想曲』のほか、大量虐殺されたポーランド将校たちへの哀悼の気持ちを込めた『カチンの墓碑銘』が収められるなど聴きごたえある内容となっています。演奏がポーランドのオーケストラと指揮者というのもファンにはたまらないところです。 【パヌフニク・プロフィール】 ポーランド出身の20世紀の作曲家、アンジェイ・パヌフニクは、1914年9月24日、ワルシャワに誕生。父はヴァイオリン製作者、母はヴァイオリニストという環境で早くから音楽を学び、ワルシャワ音楽院では打楽器と作曲・指揮を修めます。  卒業後はウィーンでワインガルトナーに師事し、その後、ロンドンとパリにも滞在して研鑽を積み最初の交響曲も作曲、ロンドンに居合わせた師のワインガルトナーから、国際情勢の悪化を理由に同地に残るよう勧められるものの、パヌフニクは祖国に帰還。  ドイツ軍占領下のワルシャワでは、友人のルトスワフスキと共に、ピアノデュオを結成して秘密裏にコンサートを開催、さらにレジスタンスの歌を書いたり、交響曲第2番や悲劇的序曲を作曲するなど大活躍。しかし、1944年、病気の母を連れてワルシャワを後にすると、ほどなく「ワルシャワ蜂起」が起き、一般市民ら約20万人(!)がドイツ軍によって惨殺され、市街地も放火・砲撃などで徹底的に破壊、パヌフニクの兄弟たちも殺されてしまいます。  パヌフニクは1945年に同地に戻り、破壊を免れた自宅を訪れますが、そこにはすでに別な人間が住んでおり、戦火を生き延びたパヌフニクの作品は彼らによって燃料として焼かれてしまっていました。失意のパヌフニクは、兄弟たちを埋葬すると、クラクフに移り、政府のプロパガンダ・フィルムのための音楽を作曲する仕事に就きます。  やがてクラクフ・フィルの首席指揮者となったパヌフニクは、指揮活動の合間を縫って自作の再構築にも着手。その後、戦火で実体が無くなってしまっていたワルシャワ・フィルの音楽監督に任命され、楽員を集めるなど再建に尽力しますが、政治的な妨害を受けて、退任を余儀なくされてしまいます。  辞任後、作曲活動に精を出し、四分音を導入するなど新生面を開いたパヌフニクは、ポーランド作曲家同盟の幹部に選ばれ、また、ユネスコ国際音楽評議会ではオネゲルとともに副会長を務めることとなりますが、ポーランド文化省から、西側の作曲家を共産主義に勧誘するよう強制され続けたことに嫌気がさしてきます。  さらに、ソ連のフレンニコフが、大会でパヌフニクの『シンフォニア・ルスティカ』を形式主義的として公然と批判し、作品の破棄と演奏禁止を要求すると、パヌフニクの音楽の前衛性に非難が集まりますが、ポーランドでは同作品は国営出版社によって出版されて何度も演奏され、さらにパヌフニクが表彰されるなど、ソ連での批判はあまり影響がなかったようです。  同じ頃、パヌフニクは3度目の夫と新婚旅行中のアイルランド女性、メアリー・エリザベス・オマホニーと知り合い、その美貌と人柄に一目惚れしてしまいます。1951年に彼らは結婚し子供もできたため、パヌフニクは生活のため映画音楽の仕事にも打ち込む一方、ヘルシンキ・オリンピックのプレ・オリンピックのために『英雄的序曲』を音楽コンクールに出品して優勝するなど、忙しい日々を過ごします。そんな中、1953年にはワルシャワ・フィルの室内管弦楽団と共にパヌフニクは中国を訪れ、周恩来首相や毛沢東主席にも会います。しかしその間、留守宅ではメアリーが娘との入浴中に癲癇の発作を起こし、娘が浴槽で溺死するという不幸な事故がおきていました。  失意のパヌフニクに対し、政府は相変わらず西側作曲家への共産主義勧誘をおこなうような依頼をおこなったため、パヌフニクは英国への亡命を決意、先に妻のメアリーが英国に渡り、その地で亡命ポーランド人たちの協力を得て、スイスにパヌフニクを招く形で国外に脱出、その後、ロンドンに飛ぶという計画を立てました。  パヌフニクはスイスに無事に入りましたが、現地のポーランド公使がパヌフニクの亡命計画に気づき、彼をポーランド大使館に呼び戻そうとします。しかしパヌフニクは同行していた秘密警察を振り切ってタクシーで飛行場に行き、なんとかロンドンに着くと政治的保護を認められました。このことは新聞でも大きく報じられ、ポーランド政府はパヌフニク Powered by HMV

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