著者 : 中野宣子
映画のように書き、小説のように撮る…… のちに世界有数の映像作家となった 映画監督イ・チャンドンによる傑作小説集 待望の日本語訳刊行! 映画監督として世界中にファンを持つ韓国の作家イ・チャンドンが、かつて小説家として発表し、「映像の世界への転換点となった」と自ら振り返る小説集、『鹿川は糞に塗れて(原題 『이창동 소설집 녹천에는 똥이 많다』)(1992)の邦訳。 収録される5作品はそれぞれ、朝鮮半島の南北分断、そこに生まれた独裁政治下の暴力、その後の経済発展がもたらした産業化や都市化に伴う諸問題などを背景にしている。すべての登場人物は、分断や社会矛盾の犠牲になって生きる「ごく普通の人びと」。 膨大な量のゴミで埋め立てられた地盤と労働者たちの排泄物の上に輝く経済発展、そしてそこに生まれた中間層の生活の構造を、作家イ・チャンドンは「糞に塗れている」と看破し、そこに生きる市民たちの悲喜交々の生を問う極上の物語を紡ぎ出す。 第25回韓国日報文学賞受賞 〔目次〕 本当の男 龍泉(ヨンチョン)ベンイ 運命について 鹿川(ノクチョン)は糞に塗(まみ)れて 星あかり あとがき 訳者あとがき
Lの運動靴を最大限修復するか。 最小限の保存処理だけですませるか。 何もせずに放っておくか。 レプリカを作るか。 何もしない修復もやはり、修復のうちに入る。分析だけして何の治療もしないことも。 1987年6月、韓国の民主抗争の最中、警察の発砲した催涙弾によって命を失った20歳の青年、大学生の「L」。28年後、彼のものだとされるボロボロの片方だけの運動靴が、修復家の元へ持ち込まれる。 「L」とは誰なのか? 運動靴の「欠けら」を修復する行為にどのような意味があるのか? 個人の「消せない記憶」とは? 人が生き、死して残す「物体」に、そしてその「修復」に、果たしてどのような意味があるのか? 主人公の美術修復家の視点を通して、静謐な時間の中で語られる「物質」と「記憶」をめぐる物語。現代アート作品の修復に関するエピソードが挿入され、修復室を訪れる寡黙な人々の人生が断片的に語られ、読者は静謐な美術修復室で繊細な思考を主人公とともに体験する。 第一部 第二部 参考文献と引用について 感謝の言葉 キム・スム 訳者あとがき 失われた人、なくした物たちへのオマージュ 中野宜子
権力はそんな彼を「囚人」にした。黄〓暎(ファン・ソギョン)は行動する作家として、労働現場、ベトナム戦争、民衆文化運動、韓国民主化・南北統一運動の渦中に身を投じ、そこに生きる人びとの姿を伝えようとした。権力はそんな彼を「囚人」にしたが、本書はその「囚人」の眼を通して、韓国現代史を生き抜いた人びとの真実を描きあげ、韓国民主化の精神を次代につなぐ文学的自伝である。
獄舎から「作家の自由」を求めて。僧侶を志した青年期の放浪、懸命な愛を注いでくれた母への想い、獄舎で出会った不遇な人びとへの共感、戦場での余りに苛酷な運命、妻の献身と不憫な子への悔悟、光州の闘いに敗れた若者への自責、そして何より独裁権力への強い怒りと闘いの日々。韓国現代文学の絢爛たる開花の沃地となった民族の記憶を作家みずからが語る。