著者 : 武田泰淳
旧約聖書の「ノアの方舟」をもとに、選ぶ側と選ばれる側が抱く苦悩を描き出した「誰を方舟に残すか」、山奥に移り住み集落の“独裁者”となった男に招待され、唖然とするような体験をする「独裁者と共に」、「見ては悪いものを見ると、とんでもないことになる」ので、大事件に巻き込まれながらも「見ざる、聴かざる、話さざる」を貫く「おとなしい目撃者」、3人の妻に捨てられた博士に依頼され、透明人間になって元妻たちにいたずらをする「透明人間」、思想犯として投獄されている“女神”と男をめぐる哀しい結末を描いた表題作「地下室の女神」など、バリエーションに富んだ9作品を収録した短篇集。
悠揚たる富士に見おろされる戦時下の精神病院を舞台に、人間の狂気と正常の謎にいどみ、深い人間哲学をくりひろげる武田文学の最高傑作。自作を語る「富士と日本人」、担当編集者・村松友視によるエッセイ「終章のあとのエピローグ」などを収めた増補新版。
若き仏教僧の懊悩を描いた筆者の自伝的巨編。恥ずかしがりのくせに強がりな十九歳の仏教僧・柳。大東亜戦争へと向かう昭和10年頃の騒然とした時代を背景に、性と政治と宗教という相容れないテーマに心と身体を悩ます若き仏教僧の悲喜こもごもを描いた長編小説の上巻。寺の子として生まれ育った武田泰淳の自伝的な大作であり、筆者の病気により未完にも拘わらず第5回日本文学大賞を受賞した“第一次戦後派作家の巨人”の代表作の一つでもある。
厳しい戒律の中でさまざまな煩悩に身を焦がす仏教僧・柳。若き僧侶・柳は布団の中でひとり思う。「宝屋夫人がしまいこんでいる快楽の要素を、すべて引き出してしまわないうちは、人生の味は感得できないのでは」-と。やがて教団活動と左翼運動の境界に身をおく柳は革命団体の分裂抗争にも巻き込まれていく。模索する人間の業、そして集団悪ー。柳の精神は千々に乱れる。中央公論社で最後の武田泰淳の担当編集者であった作家・村松友視氏があとがき解説を特別寄稿。
『上海の螢』は、著者が32歳で中日文化協会の文官として滞在した約2年間に及ぶ、敗戦前後の上海での体験を克明に記録した貴重な史料でもあり、一編を遺して未完のままとなった遺作。1947年発表の『審判』は、『上海の螢』より古く、一兵卒として中国参戦した自身の戦場での体験告白でもあり、誰にも裁かれない自分の犯した戦争犯罪を自身の手で裁くために描かれた問題作。第一次戦後派作家の“巨人”武田泰淳と上海という場所の因縁深い二作を同時収録。
エロ作家と自称する傍観者・峯三郎を小説の目に据え中国文化研究会のメンバー、情人蜜枝、マルクス青年守、桃代、支那浪人細谷源之助…。多彩な登場人物たちの3日間を切りとり、時間の同時性と野太い文体を駆使して貧婪無気味な人間探究を展開する。無限の苦悩と憧れの象徴〈中国〉を背景に混沌とした社会の肌を非情な眼で生々しく抉る戦後文学の記念碑的傑作。
雪と氷に閉ざされた北海の洞窟の中で、生死の境に追いつめられた人間同士が相食むにいたる惨劇を通して、極限状況における人間心理を真正面から直視した問題作『ひかりごけ』。仏門に生れ、人間でありながら人間以外の何ものかとして生きることを余儀なくされた若き僧侶の苦悩を描いて、武田文学の原点をうかがわせる『異形の者』。ほかに『海肌の匂い』『流人島にて』を収録する。