著者 : 津野田幸作
上杉景勝の大軍の前に佐々成政は苦吟していた。堅城として名高い富山城に籠もって上杉家の家老・直江兼続の攻城に対抗するも、わずか四日を以て落ちる。一方、諏訪の真田砦を足がかりとした幸村のもとには、当代一流の武芸者たちが続々集結していた。周囲の徳川領を切り取り勢力を伸ばした真田の去就が、天下の情勢に少なからぬ影響をもつようになった。幸村は甲府に向かって進発した。
信州上田城にて徳川家康に反旗を翻した真田昌幸・幸村親子は、直江兼続、前田慶次郎とともに三河勢を見事撃退した。家康に惨敗し続けた羽柴秀吉は、捲土重来、岡崎・刈谷攻めの両面作戦に打って出る。手薄の三河勢の隙を突き、真田は諏訪に進撃する!一方、秀吉の不興を買う希代の軍師黒田官兵衛は、反秀吉の策謀に蠢くのだった。戦国の英傑たちが激突する怒涛の合戦シミュレーション!
中国大返しで信長後継の筆頭に立った秀吉は、織田信雄と対立し家康と小牧・長久手で激突する。戦闘の勝利は徳川が収めたが、秀吉と和議を余儀なくされた家康は、北条との同盟のため真田昌幸の所領・沼田を北条に差し出そうとした。真田は家康に真っ向から反旗を翻し信州上田城で徳川軍を迎え撃つ!真田昌幸・幸村親子の秘策とは!?戦国の英傑たちが結集するもうひとつの戦国合戦記。
慶長五年九月十五日、関ヶ原の戦場に一人の男が舞い降りた。深紅の六文銭の旗を翻し、松尾山に駆け上っていくのは、真田軍の精鋭三千である。その先頭を切るのは、真田幸村であった。なぜ上田にいるはずの真田軍が、関ヶ原に現れたのか。その理由は、三年ほど前に遡る。医師の曲直瀬道三の診立てによって、己の命があと半年ほどで尽きることを知った豊臣秀吉は思い切った行動に出た。徳川家康が次の天下を奪うことを阻止するために、真田昌幸を豊臣家の軍師に据えたのだ。さらに、上杉景勝を秀頼の影の後見人とした。家康の魔手から秀頼を守り、豊臣の世を存続させるために、いま真田昌幸、幸村の壮絶な戦いが始まる。果たして真田父子は、家康の謀計を打ち砕くことができるのか!?
信濃の要衝である高遠城を奪うことに成功した織田信長は、武田の息の根を止めるべく、自ら岐阜城を出陣し、諏訪に進軍を開始しようとする。しかし、そんな信長の行く手を遮るが如く、真田昌幸が尾張の清洲城を狙って不気味な動きを見せ始めた。昌幸は信長を倒し、新たな天下人となるべく、真っ向から戦いを挑んだのだ。一方、武田勝頼が窮地に陥ったことを知った上杉謙信は、越前攻めを中止し、信濃に向かうことを決意する。上杉軍が信濃に現れたことを知った勝頼は、武田の全軍を諏訪の総決戦に投入しようとする。しかし、羽柴秀吉や軍師竹中半兵衛などの活躍もあり、武田軍は確実に追い詰められていった。果たして謙信は、勝頼を救うことができるのか!?
設楽ヶ原の戦で織田・徳川連合軍を破った武田勝頼は、得意の絶頂にいた。やがてその慢心から、信玄の代より武田家に仕える宿老を疎んじ、軍師の真田昌幸に長篠城を与えて、甲府から遠ざけてしまう。勝頼を見限った昌幸は独立を決意し、手始めに野田城、足助城、二俣城を支配下に置いた。さらに、武田四天王の一人である山県昌景を筆頭に、昌幸のもとには多くの人材が集まり始める。一方、天才軍師の昌幸を失った武田家に、暗雲が立ち篭める。織田、徳川の逆襲が始まったのだ。織田軍は小里城、明智城、岩村城、吉岡城を次々と落とし、信濃を侵して飯田城に迫る。一方、徳川軍は吉田城、掛川城、諏訪原城を奪取した。その隙を狙って、上杉謙信は越前侵攻を狙うのだが…。
真田昌幸の見事な軍略により、武田軍は長篠の戦で、織田・徳川連合軍を完膚なきまでに打ち破った。大勝を得た武田勝頼は、昌幸の功を評価して、長篠城の城主になるよう任命する。しかし、父の信玄よりもさらに領土を拡大し、連戦連勝を続けた勝頼は、次第に尊大な主君となっていった。戦死した知将馬場信春が最期に残した言葉を受け、昌幸はついに武田家から離れる決意をする。そんな中、武田家の宿老である穴山信君が勝手に小里城から退去する事件が勃発し、東美濃に不穏な空気が流れ始める。織田信長がついに本格的な逆襲を開始したのだ。一方、吉田城を取り返すことに成功した徳川家康も、総攻撃を開始した。真田昌幸の独立によって、いま戦国の世に新たな風雲が巻き起こる!
勝頼率いる武田軍は美濃岩村城に二万五千の軍勢を集結させ、真田昌幸の壮大な戦略のもと、小里城、足助城、大沼城、野田城を次々と陥落する。そして、最後に吉田城を手に入れ、徳川家康の領土を三河と遠江に分断することに成功した。破竹の勢いで進撃する武田軍に脅威を覚えた織田信長は、徳川家康から援兵の要請を受け、三万を超える大軍で岐阜城から出陣する。そして、次に長篠城を狙うであろう武田軍を粉砕するために、三河に進軍を開始した。織田・徳川連合軍総計四万を相手に、真田昌幸が考え出した戦略は、長篠城を囮にして設楽ヶ原で決戦を行うという意表を突いたものだった。信長の戦術と昌幸の軍略が真っ向から激突し、いま二人の天才の激突が始まる!
秀頼から豊臣家の軍事と政治の大権を任された真田幸村は、大坂城に約七万の兵を入れて篭城し、徳川軍十五万強を迎え撃った。その一方で、自ら淀城を奇襲して奪い、大坂城の支城とする。さらに、徳川方に反旗を翻した福島正則、立花宗茂らが広島城から東に攻め上り、姫路城、尼崎城などを落とし、別働隊として大坂城に向かった。福島軍の大坂入城を阻止すべく、伊達政宗率いる徳川軍が船場で激突を始める。同時に、徳川軍は大坂城の本丸総攻撃を開始した。秀忠率いる徳川軍は空堀に攻め掛かり、榊原康勝は大手城門を攻撃する。三万を超す徳川兵を動員した空堀攻撃によって、本丸は危機に陥るが、そこには幸村の仕掛けたある戦略が隠されていた。いま恐るべき火焔の秘計が炸裂する!
武田家の新しい当主となった勝頼は、比類なき才を持つ真田昌幸を軍師とし、上杉謙信と和睦して、怒涛の進撃を開始した。徳川の領地である遠江に侵攻した勝頼は、掛川城、高天神城、作手城を次々に落とす。武田軍に一矢報いるために、家康は二俣城奪還を狙うが、見事に迎撃されてしまった。さらに、勝頼は昌幸が考えた大戦略を実行するために、美濃岩村城に二万五千の武田軍を結集させる。それは、徳川領を三河と遠江に分断し、家康をさらに追い詰める作戦であった。一方、越中を平定した上杉謙信は、能登・加賀を手に入れるべく、末森城に攻撃を開始する。小里城、足助城、大沼城、野田城、そして吉田城と、破竹の進撃を続ける武田軍を、織田・徳川軍団は止めることができるのか。