おむすび | 2025年5月16日発売

2025年5月16日発売

両膝を怪我したわたしの聖女両膝を怪我したわたしの聖女

決 壊 す る 文 体 ーー圧倒的な感情がほとばしり、膨れ上がり自壊する言葉の群れが未熟な欲望を覆い尽くす。10歳の少女らを閉じ込めるひどく退屈な夏休み、早熟なふたりの過激で破滅的な友情。 スペイン最南カナリア諸島発、世界18カ国語に翻訳の問題作。  ◇ ◇ ◇ スペイン・カナリア諸島に暮らす、10歳の「わたし」と親友イソラ。 せっかくの夏休みは、憂鬱な曇天に覆われていた。薄暗い貧困の地区を抜け出して、陽光のふりそそぐサン・マルコス海岸に出かけたいのに、仕事に追われる大人たちは車を出してやる余裕がない。ふたりの少女は退屈しのぎのため、不潔にして乱暴、猥雑で危うい遊びにつぎつぎ手を染める。 親友というには過激すぎる、共依存的関係性。 「わたし」にとってイソラはまるで聖女のように絶対的な存在だった。イソラが両膝を怪我すれば、舌でその血をなめとった。イソラの飼い犬になりたかった。粗暴な物語に織り込まれた緻密な象徴の数々。子どもらしいイノセンスとは無縁の、深い悲しみに由来する頽廃と陶酔の日々。 イソラと共にある日常は永遠に続くかに思われた。しかしーー  ◇ ◇ ◇ Andrea Abreu, Panza de burro (2020) 装丁:コバヤシタケシ 装画:さめほし「夜明けの海」 あんなに大胆で、あんなに怖いもの知らずに ほんのちびっとだけ イソラ・カンデラリア・ゴンサレス=エレラ 松葉の下のキノコ これは雨になりそうだ クリームを、首にクリームを タイヤをきしませながら行くメタリックのビマー ヨソモンは臭い ウサギを嚙まずに丸ごと食べちゃう フアニータの叫び声は十字路の向こうまで響いた イソラを食べてしまう まだはつ明されてないような愛ぶをしてやるぜ イソラの足がアスファルトを踏む 猟犬みたいにやせっぽち こすりつける 両膝を怪我したわたしの聖女 イエス・キリストの小さな顔 その日はキャベツシチューしかなかった iso_pinki_10@hotmail.com ペペ・ベナベンテのBGM クロウタドリの羽みたいに黒い目 エドウィン・リベラ ジャガイモひとつごとに半キロ 胴体にナイフ イソラが存在しなかったときみたいに 女に残る最後のもの わたしたちはこんなふうに夜の蛾のように ひとりでこする 這い回るトカゲ 広場の上につるした色紙 訳者あとがき

雨雲の集まるとき雨雲の集まるとき

「ただ、自由な国に暮らすのがどういうことなのか、感じてみたいんです。そうしたら、僕の人生の邪悪なものが正されていくかも知れない」 アパルトヘイト時代、南アフリカ。政治犯として刑務所で二年間を過ごしたジャーナリストの青年マカヤは、国境近くに隠れて夜を待っていた。闇に紛れて国境フェンスを乗り越え、新たな人生へ踏み出すために。たどり着いたのは独立前夜の隣国ボツワナの村ホレマ・ミディ。農業開発に奮闘する英国人の青年ギルバートと出会い、初めて農業・牧畜に携わることになったマカヤ。しかし、非人間的なアパルトヘイト社会の南アフリカとはまるで違う、自由の国であるはずのボツワナにも抑圧者は存在した。マカヤはこの国の抱える人種主義や抑圧の問題、人間の善悪、そして干ばつの苦しみを目の当たりにする。深い心の闇を抱えたマカヤは、やがて村人との出会いで傷ついた自らの心を癒していくが……。 「人間がもっとも必要としているのは、他の生命との関わりあいだ。もしかすると、ユートピアもただの木々なのかもしれない。もしかすると」 南アフリカ出身の重要作家ベッシー・ヘッドが、亡命先ボツワナで発表した1968年の長編第一作、待望の邦訳。アパルトヘイトの抑圧から逃れ、自由を求めて国境を越えた青年マカヤは、ボツワナ農村の開発に関わりながら、差別や抑圧、人間の善悪を目の当たりにする。貧困、開発、宗教、民主主義、ジェンダー、部族主義と向き合い、鋭い筆致で人間の本質を描いたアフリカ文学の傑作。

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