著者 : 日野啓三
ー見えないはずの物が見え、覚えているはずのことが消えて何が悪い?おれの記憶の中心には穴がある。それが“現実”というもので、掛け値なしの現実はなんと異常で気味悪く透明なものだろう。-月面基地での作業中に事故に遭った“男”。帰還したものの強い逆行性健忘症になってしまい、さまざまなことが思い出せない。が、中国人看護師との会話や、放浪していたところをかくまってくれた老婆、ホームレスの老人との出会いによって徐々に記憶を取り戻していく。はたして、“男”にとって光とは、闇とはなんだったのかー。近未来を舞台に、物質文明や人間の陰陽を見事に描出した傑作長編。第47回読売文学賞受賞作。
大都会・東京の真ん中で静かに佇む洋館に心惹かれた「私」は、得体の知れない不動産屋に誘われるままにその館を訪ねる。そこには幻想的な少女・霧子や近寄りがたい老主が住んでいた。身を固く包んで口さえ開こうとしない霧子に、私の興味は膨らんでいく。主である霧子の祖父の依頼で、彼女の家庭教師として洋館に同居することになる私ー。そしてこの一家の住人たちは数奇な運命に翻弄され始めるのだった。「ある夕陽」で芥川賞を受賞した日野啓三が幻想的作風で新境地を開き、泉鏡花賞に輝いたロマネスク小説の傑作。
日常から遠く隔たった土地の悠久の歴史を物語る遺構や人を寄せ付けない奥深い自然の中に身を置いた主人公が自らの経験を通じて「私」を超えていこうとする試みは、やがて若者や女性といった身近な他者の異質な感性に刺激されて一層深化した世界感覚によって変貌を遂げる。後に高い評価を受ける都市を舞台にした作品群の嚆矢となった表題作を始め、転形期のスリルに満ちた傑作短篇集。
小説家・日野啓三が誕生した場所ーベトナムに関わる全短篇を集成。一九六四年、新聞社の常駐特派員として戦乱の地・南ベトナムに赴任、民衆や兵士の悲惨に直面し、溶解する現実感覚を“小説”のかたちで表現することを決意。六六年、初の小説「向う側」を発表、その後連続して、ベトナム戦争を舞台に、形而上的想念を、虚構的、実験的な作品へと昇華。単行本未収録作品六篇を含む、貴重な一書。
7年前に内臓の悪性腫瘍を摘出した作家の「私」は、駅のホームを照らしだす異様に透明な光を手術前夜に見て確信する。生きていてよかったと-死と隣り合う生の根源的な輝きを鋭利に描く短編集。
三人姉妹、新しい神話の誕生。静謐な秋の湖にとどろく雷鳴。魂の成熟と再生、思寵の美しさ!男は水際の砂場に立っていた。風はないのに水際にはひっそりと漣が寄せている。異常なほど透明な水。だが湖の表面は両側の山陰部分だけを除いて、一面赤っぽい黄色に、ほとんど金色に染まっている。その光のきらめきの中に、女は後姿だけ見せていた。肩の広い長身の後姿が、影絵のように水から浮き出している。女がいまここに連れてきてくれたことよりも、前もって話さなかったことに、そしていまも黙って離れていることに、男は女の配慮を、彼女もこの世のものならぬこの光景を大切に思っていることを感じた。魂が不意に真空に晒される思いだ。知覚だけが異様に冴えて、感情の領域より一段下、普段は静まり返っている体の芯に近い暗い領域がひとりでに疼いて、自然に体が内側から開いてくる。
悪性腫瘍の手術から半年。免疫強化剤による宙を漂うような状態の中で、作家は小説を書いている。最後の作品になるかも知れぬ小説を、自分の頭蓋骨の内側に坐りこむのにも似た書斎で。私はあのとき確かに生きていたのだ、と感じられる場景に出会うために。想起することで高められ、強められる現実感を呼びよせようとして。死にも対峙し得る記憶の鮮烈、濃密な瞬間を…。野間文芸賞受賞。
タクラマカン砂漠、エアーズ・ロック、カッパドキアの岩窟群、実現しなかったサバンナへの旅…そして東京の埋立地にも同じ陽が昇り、懐しい惑星の風景が広がる。著者の記憶と経験を、荒涼と美しい世界との出会いとして描く作品集。
天窓からの光が、いま体じゅうに降り注いでいる。「聖霊」がぼくの中に入りこんでくるーコンクリートガレージの宇宙船に乗りこんだ少年が、異界の光と交感する幻想的な都市小説の表題作ほか、無人世界の不思議な力と感応して現代文学に新たな地平を切り拓いた6篇を収録。