著者 : 日野啓三
日韓国際結婚の難しさを描く私小説の名篇 裕福な家庭に育ちながら、朝鮮戦争で父が殺されたり、姉が北側の軍隊に連行されたりして人生がくるってしまった韓国人女性と、新聞社の韓国特派員を務める〈私〉。「一種投げやりに不安定な心の匂い」に惹かれて、日本に帰国後も海峡を挟んで連絡を取り合っていたが、結婚する決心はついていなかった。「国のちがい、習慣のちがい、父親がどういう仕事をしていたのかはわからないがかなりぜいたくに育ったらしい彼女との生活程度のちがい──生まれてくるはずの子供の将来のこと」を考えると不安になるし、友人や家族まで反対したからだ。 ともあれ、婚姻届けを提出し、日本でふたりの生活を始めたものの、来日三、四日目には「きつい表情で黙りこんだあと、彼女の感情は不意に激しく渦巻き始めて、自分でもどこに向うのか見当のつかぬつむじ風のように荒れ出す」という激しい性格があらわになる。はたして、大波にもまれるような結婚生活の行方は──。 平林たい子賞に輝いた、私小説の名篇。
事故で記憶をなくした男の“再生”物語 --見えないはずの物が見え、覚えているはずのことが消えて何が悪い? おれの記憶の中心には穴がある。それが〈現実〉というもので、掛け値なしの現実は何と異常で気味悪く透明なものだろう。-- 月面基地での作業中に事故に遭った〈男〉。帰還したものの強い逆行性健忘症になってしまい、さまざまなことが思い出せない。 しかし、中国人看護師との会話や、放浪していたところをかくまってくれた老婆、ホームレスの老人との出会いによって徐々に記憶を取り戻していく。はたして、〈男〉にとって光とは、闇とはなんだったのかーー。 近未来を舞台に、物質文明や人間の陰陽を見事に描出した傑作長編。第47回読売文学賞受賞作。
妖しい洋館が舞台のロマネスクな人間模様 大都会・東京の真ん中に静かに佇む洋館に心惹かれた「私」は、得体の知れない不動産屋に誘われるままにその館を訪ねることになる。 そこには幻想的な少女・霧子や近寄りがたい老主が住んでいた。身を固く包んで口さえ開こうとしない霧子に、私の興味は膨らんでいく。 主である霧子の祖父の依頼で、彼女の家庭教師として洋館に同居することになる私……。そこで、この一家の住人たちは数奇な運命に翻弄され始めるのだった。 「ある夕陽」で芥川賞を受賞した日野啓三が幻想的作風で新境地を開き、泉鏡花賞に輝いたロマネスク小説の傑作。
トルコ、シベリア、ノルウェー、スリランカ……世界の歴史ある土地から、無機的ともいうべき都市空間へ。感性の大転換を示す代表作。 地下都市 昼と夜の境に立つ樹 ワルキューレの光 渦 巻 29歳のよろい戸 天窓のあるガレージ 夕焼けの黒い鳥 【参考資料】文庫版あとがき 解説 鈴村和成 年譜 著書目録
ベトナム戦争時に特派員として滞在した著者が、小説で描いたベトナムの明と暗を網羅。 戦争に生きることを深く見つめる作品集。 ※本書では、以下のものを底本としました。 「向う側」は『日野啓三短篇選集上巻』(1996年12月、読売新聞社)、「ヤモリの部屋」は『風の地平』(1976年4月、中央公論社)、「林でない林」は『どこでもないどこか』(1990年9月、福武書店)、「悪夢の彼方」は『日野啓三自選エッセイ集 魂の光景』(1998年12月、集英社)、「“向う側”ということ」は『都市という新しい自然』(1988年8月、読売新聞社)、それ以外の作品は、それぞれの末尾に示した初出誌に拠りました。 1 向う側 広場 炎 地下へ デルタにて 対岸 ヤモリの部屋 サイゴンの老人 林でない林 2 悪夢の彼方ーーベトナムの夜の底で “向う側”ということ
7年前に内臓の悪性腫瘍を摘出した作家の「私」は、駅のホームを照らしだす異様に透明な光を手術前夜に見て確信する。生きていてよかったと-死と隣り合う生の根源的な輝きを鋭利に描く短編集。
三人姉妹、新しい神話の誕生。静謐な秋の湖にとどろく雷鳴。魂の成熟と再生、思寵の美しさ!男は水際の砂場に立っていた。風はないのに水際にはひっそりと漣が寄せている。異常なほど透明な水。だが湖の表面は両側の山陰部分だけを除いて、一面赤っぽい黄色に、ほとんど金色に染まっている。その光のきらめきの中に、女は後姿だけ見せていた。肩の広い長身の後姿が、影絵のように水から浮き出している。女がいまここに連れてきてくれたことよりも、前もって話さなかったことに、そしていまも黙って離れていることに、男は女の配慮を、彼女もこの世のものならぬこの光景を大切に思っていることを感じた。魂が不意に真空に晒される思いだ。知覚だけが異様に冴えて、感情の領域より一段下、普段は静まり返っている体の芯に近い暗い領域がひとりでに疼いて、自然に体が内側から開いてくる。
悪性腫瘍の手術から半年。免疫強化剤による宙を漂うような状態の中で、作家は小説を書いている。最後の作品になるかも知れぬ小説を、自分の頭蓋骨の内側に坐りこむのにも似た書斎で。私はあのとき確かに生きていたのだ、と感じられる場景に出会うために。想起することで高められ、強められる現実感を呼びよせようとして。死にも対峙し得る記憶の鮮烈、濃密な瞬間を…。野間文芸賞受賞。
タクラマカン砂漠、エアーズ・ロック、カッパドキアの岩窟群、実現しなかったサバンナへの旅…そして東京の埋立地にも同じ陽が昇り、懐しい惑星の風景が広がる。著者の記憶と経験を、荒涼と美しい世界との出会いとして描く作品集。
天窓からの光が、いま体じゅうに降り注いでいる。「聖霊」がぼくの中に入りこんでくるーコンクリートガレージの宇宙船に乗りこんだ少年が、異界の光と交感する幻想的な都市小説の表題作ほか、無人世界の不思議な力と感応して現代文学に新たな地平を切り拓いた6篇を収録。