小説むすび | 著者 : 下楠昌哉

著者 : 下楠昌哉

百年目の『ユリシーズ』百年目の『ユリシーズ』

20世紀を代表する文学作品『ユリシーズ』。ジェイムズ・ジョイスがこの傑作を世に送り出してからちょうど百年目にあたる2022年、ジョイス研究の枠を越えて気鋭の論者が結集した。多様な視点から、『ユリシーズ』の「百年目にふさわしい読み」を提示する論考群。 前口上(下楠昌哉) 『ユリシーズ』梗概+『オデュッセイア』との対応表(宮原駿) 『ユリシーズ』主要登場人物一覧(宮原駿) ジェイムズ・ジョイス評伝(田村章) 1.横たわり尖がって『ユリシーズ』を読む 横たわる妻を想う──ジェイムズ・ジョイスと〈横臥〉の詩学(小島基洋) 眼を閉じるスティーヴン、横たわるベラックワ──「子宮」イメージの変容とアリストテレスの思考の継承(深谷公宣) 違法無鑑札放浪犬の咆哮──『ユリシーズ』における犬恐怖と狂犬病言説(南谷奉良) 「キュクロプス」挿話のインターポレーション再考(小野瀬宗一郎) ジェイムズ・ジョイス作品における排泄物──古典的スカトロジーから身体の思考へ(宮原駿) 2.『ユリシーズ』を開く──舞踏・演劇・映画・笑い ニンフの布──ニジンスキー『牧神の午後』と「キルケ」挿話の比較考察(桐山恵子) ハムレットを演じる若者たちのダブリン──「スキュレとカリュブディス」挿話におけるスティーヴンの即興演技(岩田美喜) 『ユリシーズ』とヴォルタ座の映画(須川いずみ) 『ユリシーズ』のユグノー表象に見る移民像と共同体(岩下いずみ) 『ボヴァリー夫人』のパロディとしての『ユリシーズ』──笑い・パロディ・輪廻転生(新名桂子) 3.『ユリシーズ』と日本 『ユリシーズ』和読の試み 『太陽を追いかけて』日出処へ──ブッダ・マリガンと京都の芸妓はん(伊東栄志郎) 海の記憶──山本太郎の『ユリシィズ』からジョイスの『ユリシーズ』へ(横内一雄) 4.さらに『ユリシーズ』を読む 恋歌に牙突き立てる吸血鬼──スティーヴンの四行詩とゲーリック・リヴァイヴァルへの抵抗(田多良俊樹) 『ユリシーズ』で再現される夜の街─夢幻劇として読まない「キルケ」挿話(小田井勝彦) 「エウマイオス」挿話をめぐる「ファクト」と「フィクション」(田村章) 限りなく極小の数を求めて──「イタケ」挿話における数字に関わる疑似崇高性について(下楠昌哉) デダラス夫人からモリーへ──スティーヴンの鎮魂(中尾真理) あとがき(須川いずみ)

ほら、死びとが、死びとが踊るほら、死びとが、死びとが踊る

アボリジニにルーツを持つ作家が、オーストラリア現代文学に切り拓いた新たな地平。 生と死、人と鯨、文明と土着のあわいで紡がれた言葉、唄、踊り。ふたつの異なる世界を軽やかに行き来した先住民(ヌンガル)の少年が見つけた希望は、歴史の痛ましい「現実」の彼方で煌めきつづける。 19世紀前半の植民初期、「友好的なフロンティア」と呼ばれたオーストラリア南西部の海辺で、先住民と入植者が育んだ幸福な友情とやがて訪れた悲しい対立の物語。 米国の捕鯨船も来航する入植地にヨーロッパ人が現れたころに生まれたヌンガルの少年ボビーは、幼くして一族の死者と交信するする特別な踊り「死びとの踊り」の導き手であると同時に、持ち前の好奇心から入植者の社会に入り込み、白人たちの言葉と文字を獲得していた。先住民と入植者のあいだの緊張が高まり、ついに衝突しそうなとき、ボビーは白人たちに「死びとの踊り」を披露し、互いを排除しあうのではない融和の道を探ろうとするが……?

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