私本太平記(八)
湊川に繰り広げられた楠木軍の阿修羅の奮戦。さしもの正成も“敗者復活”の足利軍に制圧された。正成の死は、後醍醐方の大提防の決壊に等しかった。浮き足立つ新田義貞軍、帝のあわただしい吉野ごもり。その後の楠木正行、北畠顕家の悲劇。しかし尊氏も、都にわが世の春を謳うとは見えなかった。一族の内紛?勝者の悲衰?彼は何を感じていたか。
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大作『新・平家物語』を完成した著者は、息つく暇もなく、南北朝を題材とする『私本太平記』の執筆にかかった。古代末期から中世へーーもはや王朝のみやびは影をひそめ、人間のどす黒さがあらわに出てきた時代、しかも歴史的には空白の時代である。史林の闇に分け入るとき、若者は使命感と創作意欲の高まりを禁じえなかった。開巻第1、足利又太郎(尊氏)が颯爽と京に登場する。 この世の影なき魔物の正体を衝く意欲作ーー日本史上の空白期とされる南北朝時代、もはや王朝のみやびは影をひそめ、人間のドス黒さがあらわに出てきた時代ーー足利又太郎(後の尊氏)が颯爽と京に登場する。 ■あしかが帖 下天地蔵 大きな御手 時の若鷹 ばさら大名 藤夜叉 あばれ川 新田桜 置 文 なべとかま 裁許橋 うつつなき人 登 子 波まぎれ 不知哉丸 ■婆娑羅帖 乱鳥図 正中ノ変 楠木たずね 悲 歌 ぶらり駒 繚乱七種 妖霊星 上り地蔵 1990/02/05 発売
鎌倉幕府が開かれてから130年、政治のひずみが到るところに噴出していた。正中ノ変はその典型的な例である。そして公武の亀裂はますます拡大し、乱世の徴候が顕然となった。「天皇御むほん」さえ囁かれるのである。当時は両統迭立の世、後醍醐天皇が英邁におわすほど、紛擾のもととなった。この間、足利高氏が権門の一翼として擡頭し、再度の叛乱に敗れた日野俊基とは明暗を大きく分ける。 1990/02/05 発売
後醍醐の切なるご催促に、楠木正成は重い腰をもち上げた。水分の館から一族5百人の運命を賭けてー。すでに主上は笠置落ちの御身であった。また正成も、2万の大軍が取り囲む赤坂城に孤立し、早くも前途は多難。一方、正成とはおよそ対照的なばさら大名・佐々木道誉は幽閉の後醍醐に近づき、美姫といばらの鞭で帝の御心を自由に操縦しようとする。かかる魔像こそ、本書の象徴といえよう。 1990/03/05 発売
元弘3年(1333年)は、また正慶2年でもあった。敵味方によって年号が違うのも異常なら、後醍醐帝が隠岐に配流という現実も、尋常の世とはいえない。眇たる小島は風涛激化、俄然、政争の焦点となった。不死鳥の如き楠木正成は、またも天嶮の千早城に拠って、5万の軍勢を金縛りに悩ましつづけている。一方、去就を注目される足利高氏は、一族四千騎を率いて、不気味な西上を開始する。 1990/03/05 発売
なぜ、建武の新政が暗礁に乗りあげたのか? 根本には、公卿は武家を蔑視し、武家は公卿を軽んじていたからである。それが端的に論功行賞に現れ、武家の不満は爆発した。武家は不平のやり場を尊氏に求めたが、この趨勢を心苦く思っていたのが、大塔ノ宮だった。尊氏を倒せ! その作戦は宮のもとで練られていた。北東残党の蠢動は激しく、宮には絶好の時かと思われたが……。 建武の新政が、早くも暗礁に乗りあげるーー公卿は武家を蔑視し、武家は公卿を軽んじる。それが端的に論功行賞にあらわれ、武家の不満は爆発した。武家は不平のやり場を尊氏に求めたが、情勢は混迷を深める。 ■建武らくがき帖(つづき) 今・道鏡 夕顔晩歌 男 山 毛抜き 初雪見参 北山手入れ 土の牢 ■風花帖 野分のあと 東景色 義貞・駁す 網引き地蔵 門 風 花 内裏炎上 小公子 第五列 魚見堂 筑紫びらき 1990/04/03 発売