1989年11月発売
大作「新書太閤記」の一大分脈を成すのが本書である。秀吉といえども、独力では天下を取れなかった。前半は竹中半兵衛の智力を恃り、後半は黒田如水を懐刀とした。如水は時勢を見ぬく確かな眼をもっており、毛利の勢力下にありながら、織田の天下を主張。また、荒木村重の奸計に陥り、伊丹城地下牢での幽囚生活を余儀なくされながら、見事に耐えぬく。-若き日の如水を格調高く描く佳品。
徳川家康の第六子である松平上総介忠輝は生まれたとき色あくまで黒く、まなじり逆さに裂けていた。長じた忠輝は「騎射人にすぐれ、両腕にうろこがあり、水泳神に通じ、剣術絶倫、化現の人なり」といわれ、二十五歳で配流され、九十二歳まで生きた。まさに異能の人である。この人物がなぜ流され、秀忠・家光・家綱・綱吉の四代の将軍のもとで、なぜ許されることがなかったか、今日でも謎である。
その人妻はバーボンに似ていた。甘さに気を許すと手ひどい目に合う。彼女は涙を見せたあとで死んだ。女子大生はバイクの風切り音を思わせる。興奮のるつぼの中で、勝手に歌を口ずさむ。彼女は一緒に探偵をしてくれた。男は60年代の映画だ。泣き虫のくせに他人を傷つける。そいつは殺人者という名前だった。-ウィットあふれる会話と繊細な構成、哀しいジャズの旋律に乗せて、新感覚ハードボイルドの世界が拓ける!
ハーフムーンとは、結婚しているにせよ、結婚してないにせよ、出会いと別れを一巡りした後で、愛について、そして一人であることについてもう一度考えてみようとしている人たちのことである。ハーフムーンたちにとって、もはや結婚は恋愛のハッピーエンドとは限らない。だとしたら愛はいったいどんな未来へとつながるべきなのだろうか。待つという甘美な時間を捨てたとき、女に恋愛のかたちが見えてきた。信じすぎてはいけない。半分だけの幸せの中に自由がある。
昭和23年、18歳の春、旧制松山高校の学生だった私は、一人の女と出会い、血気にまかせて予期せぬ道を走り出した。女は、道後松ヶ枝町の遊廓の娼婦・イチ子。私は、イチ子の背中の刺青に合わせて、“夫婦彫り”をしたのだ…。敗戦直後の混乱期、四国・松山を舞台にくりひろげられる“巷の天才・英雄たち”の青春。おもしろうて、やがてかなしき無頼の日々を綴る自伝的長編小説。
朝倉利奈は短大卒、失業中、1Kのおんぼろアパート住まいーごくフツーの女の子に、ある日、突然、舞い込んできた夢のような話。その仕事とは、ニューヨークに住んで、ミュージカル、映画などのショウビジネスの情報を日本に送るというもの。信用しても大丈夫かな?でも本当にニューヨークにいけるなら…。20歳の女の子の〈冒険〉を通して、現代の表層と深層を軽やかに描く長編。