著者 : 吉川英治
なぜ、建武の新政が暗礁に乗りあげたのか? 根本には、公卿は武家を蔑視し、武家は公卿を軽んじていたからである。それが端的に論功行賞に現れ、武家の不満は爆発した。武家は不平のやり場を尊氏に求めたが、この趨勢を心苦く思っていたのが、大塔ノ宮だった。尊氏を倒せ! その作戦は宮のもとで練られていた。北東残党の蠢動は激しく、宮には絶好の時かと思われたが……。 建武の新政が、早くも暗礁に乗りあげるーー公卿は武家を蔑視し、武家は公卿を軽んじる。それが端的に論功行賞にあらわれ、武家の不満は爆発した。武家は不平のやり場を尊氏に求めたが、情勢は混迷を深める。 ■建武らくがき帖(つづき) 今・道鏡 夕顔晩歌 男 山 毛抜き 初雪見参 北山手入れ 土の牢 ■風花帖 野分のあと 東景色 義貞・駁す 網引き地蔵 門 風 花 内裏炎上 小公子 第五列 魚見堂 筑紫びらき
一夜にして人間の評価が変るのが乱世の慣い。尊氏が“筑紫隠れ”の朝、新田義貞は、凱旋将軍として、堂上の歓呼をあびていた。左近衛ノ中将の栄誉、それのみでなく、後醍醐の寵姫・勾当の内侍を賜ったのだ。それにひきかえ、貴顕に生命乞いする佐々木道誉の鵺(ぬえ)ぶり。また、朝敵たる汚名は逃れたものの、尾羽打ち枯らした尊氏。しかし彼は、北九州に勢力を養い、反攻を意図する。 一夜にして人間の評価が変るのが乱世の慣い。尊氏が「筑紫隠れ」の朝、新田義貞は凱旋将軍として、堂上の歓呼をあびていた。--尾羽打ち枯らした尊氏であったが、北九州に勢力を養い、密かに反攻を企てる。 ■風花帖(つづき) 勾当の内侍 路頭の子 豆と豆がら ■筑紫帖 瘧 河内鞠唄 よそ者 昼の月 ひびき灘 菊池党 多々羅合戦 船あつめ 山海相聞 雨 期 ■湊川帖 面 別れ霜 献 言 桜井の宿 この半夜 日輪分裂
後醍醐の切なるご催促に、楠木正成は重い腰をもち上げた。水分の館から一族5百人の運命を賭けてー。すでに主上は笠置落ちの御身であった。また正成も、2万の大軍が取り囲む赤坂城に孤立し、早くも前途は多難。一方、正成とはおよそ対照的なばさら大名・佐々木道誉は幽閉の後醍醐に近づき、美姫といばらの鞭で帝の御心を自由に操縦しようとする。かかる魔像こそ、本書の象徴といえよう。
元弘3年(1333年)は、また正慶2年でもあった。敵味方によって年号が違うのも異常なら、後醍醐帝が隠岐に配流という現実も、尋常の世とはいえない。眇たる小島は風涛激化、俄然、政争の焦点となった。不死鳥の如き楠木正成は、またも天嶮の千早城に拠って、5万の軍勢を金縛りに悩ましつづけている。一方、去就を注目される足利高氏は、一族四千騎を率いて、不気味な西上を開始する。
「宮本武蔵」の圧倒的な好評を受けて、著者は次作の題材を吟味した。昭和15年新春より朝日新聞紙上を飾ったのが「源頼朝」である。これには“小説日本外史”の副題がついている。歴史を闊歩した代表的日本人を次々に登場させる構想で、その第一に源頼朝が選ばれた。まさに頼朝こそ源平抗争の英雄であり、700年の武家社会を築いた巨擘である。著者は武将頼朝の周辺に鋭く肉薄してゆく。
大作『新・平家物語』を完成した著者は、息つく暇もなく、南北朝を題材とする『私本太平記』の執筆にかかった。古代末期から中世へーーもはや王朝のみやびは影をひそめ、人間のどす黒さがあらわに出てきた時代、しかも歴史的には空白の時代である。史林の闇に分け入るとき、若者は使命感と創作意欲の高まりを禁じえなかった。開巻第1、足利又太郎(尊氏)が颯爽と京に登場する。 この世の影なき魔物の正体を衝く意欲作ーー日本史上の空白期とされる南北朝時代、もはや王朝のみやびは影をひそめ、人間のドス黒さがあらわに出てきた時代ーー足利又太郎(後の尊氏)が颯爽と京に登場する。 ■あしかが帖 下天地蔵 大きな御手 時の若鷹 ばさら大名 藤夜叉 あばれ川 新田桜 置 文 なべとかま 裁許橋 うつつなき人 登 子 波まぎれ 不知哉丸 ■婆娑羅帖 乱鳥図 正中ノ変 楠木たずね 悲 歌 ぶらり駒 繚乱七種 妖霊星 上り地蔵
鎌倉幕府が開かれてから130年、政治のひずみが到るところに噴出していた。正中ノ変はその典型的な例である。そして公武の亀裂はますます拡大し、乱世の徴候が顕然となった。「天皇御むほん」さえ囁かれるのである。当時は両統迭立の世、後醍醐天皇が英邁におわすほど、紛擾のもととなった。この間、足利高氏が権門の一翼として擡頭し、再度の叛乱に敗れた日野俊基とは明暗を大きく分ける。
北国育ちの魏の水軍は、船酔い続出で戦力が低下していたため、曹操も連環の計を受け入れてしまった。孔明の奇蹟を待っていた呉の周瑜は、生暖かい東南風が吹くや否やただちに充分用意されていた作戦を発動した。陸上には要所に各軍団を展開、水上には船足の速い大小の船艇を進ませた。この船団こそ、燃えやすい柴や油をかけた干し草、煙硝などを満載した焼打ち艦隊だった。八十余万の魏軍は一夜にして3分の1に減った。これが赤軍の戦だった。
後漢末の三世紀、漢室の正統の血を引く青年、劉備も〓@56B0県の楼桑村に母親とむしろを織って売り暮らす、しがない身である。この時代を嵐のように吹き荒れた黄巾の賊の乱を避けようとすれば、人々は酷史の収奪にあわねばならなかった。すでに朝廷の威令は届かず、ねい臣がはびこり、地方官またいかにして私腹を肥やさんかと盛んに民を追い使った。後に「三国志」のスターになる関羽も張飛も、この世情では才能を発揮できず空しく膝を抱いていたのであった。が、劉備の血統を知り、その人格識見に親しむや、盟主にはこの人をこそ、と祭壇を作って祈り、劉備を長兄として天下万民を救わんと三人誓い合う。
長い遍歴をともに重ねてきた城太郎は、木曽路でぷっつり消息を絶ち、武蔵は、下総の法典ケ原で未懇の荒野を開拓しはじめた。恃むべき剣を捨て、鍬を持った武蔵!これこそ一乗寺以後の武蔵の変身である。相手は不毛の土地であり、無情の風雨であり、自然の暴威であった。-その頃、小次郎は江戸に在って小幡一門と血と血で争い、武蔵の“美しい落し物”も、江戸の巷に身を奇せていた。
わが国の新聞小説で「宮本武蔵」ほど反響を呼んだ小説はないであろう。その一回一回に、日本中が一喜一憂し、読者は武蔵とともに剣を振い、お通とともに泣いたのである。そしていまひとつ気になる存在ー小次郎の剣に磨きがかかればかかるほど、読者は焦躁する。その小次郎は、いち早く細川家に仕官するという。宿命の敵、武蔵と小次郎の対決のときは、唸りをうって刻まれてゆく。
当初、二百回ぐらいの約束で新聞連載が開始されたが、作者の意気込み、読者・新聞社の熱望で、五年がかり、千余回の大作に発展した。一度スタートした構成を途中から変えることは至難だが、さすがは新聞小説の名手。ただし、構成は幾変転しようと、巌流島の対決で終局を飾ることは、不動の構想であった。作者が結びの筆をおいたとき、十二貫の痩身は、十貫台にー文字通り、鏤骨の名作。
今や、武蔵は吉岡一門の敵である。清十郎の弟・伝七郎が武蔵に叩きつけた果し状!雪の舞い、血の散る蓮華王院…。つづいて吉岡一門をあげての第二の遺恨試合。一乗寺下り松に吉岡門下の精鋭70余人がどっと一人の武蔵を襲うー。
吉岡一門との決闘を切り抜けたことは、武蔵に多大の自信とそれ以上の自省を与えた。そしてまた、大勝負の後に訪れたゆくりなき邂逅。-それはお通であり、又八であり、お杉婆であった。その人々が、今後の武蔵の運命を微妙に織りなしてゆく。山ならば三合目を過ぎ、いま武蔵の行く木曾路、遥かな剣聖を思い、お通を案じる道中は風を孕み、四合目の急坂にかかる。
大正の末年から昭和の初め、「少年倶楽部」の目ざましい躍進期に、その中心読みものとなったのが、佐藤紅緑の諸作と、「神州天馬侠」である。織田、徳川の連合軍に滅ぼされた武田勝頼の遺子・伊邦丸が、忠義の士に護られて、健気にもお家の再興をはかる。しかし、戦国群雄の圧力の前には…。当時、子供も大人も、この小説に熱狂した。今も、その底力を保ちつづける大衆児童文学の記念碑。
伊那丸を護る人々。軍師の民部を別にすれば、鉄杖の忍剣、剣の木隠、槍の巽、弓道の山県が四天王。いずれ劣らぬ一騎当千の猛者。さらに女ながらも、一管の笛で胡蝶の陣を指揮する咲郁子。これらの勇士に愛されるのが鞍馬の竹童である。果心居士の弟子、だが幻術は初手。彼と仲の悪いのが、泣き虫の蛾次郎。鼻かけト斎の弟子、ぐうたらだが、石投げは天才。2人は鷲を争い、互いの技を競う。
野に伏す獣の野性をもって孤剣を磨いた武蔵が、剣の精進、魂の求道を通して、鏡のように澄明な境地へと悟達してゆく道程を描く、畢生の代表作。-若い功名心に燃えて関ケ原の合戦にのぞんだ武蔵と又八は、敗軍の兵として落ちのびる途中、お甲・朱実母子の世話になる。それから1年、又八の母お杉と許嫁のお通が、二人の安否を気づかっている郷里の作州宮本村へ、武蔵は一人で帰ってきた。