出版社 : 白水社
「王子光(ワンツーコアン)」とは何かーー滅びの街の物語 黄泥街は狭く長い一本の通りだ。両側には様々な格好の小さな家がひしめき、黄ばんだ灰色の空からはいつも真っ黒な灰が降っている。灰と泥に覆われた街には人々が捨てたゴミの山がそこらじゅうにあり、店の果物は腐り、動物はやたらに気が狂う。この汚物に塗れ、時間の止まったような混沌の街で、ある男が夢の中で発した「王子光」という言葉が、すべての始まりだった。その正体をめぐって議論百出、様々な噂が流れるなか、ついに「王子光」がやって来ると、街は大雨と洪水に襲われ、奇怪な出来事が頻発する。あらゆるものが腐り、溶解し、崩れていく世界の滅びの物語を、言葉の奔流のような圧倒的な文体で語った、現代中国文学を代表する作家、残雪(ツァンシュエ)の第一長篇にして世界文学の最前線。残雪研究の第一人者でもある訳者の「わからないこと 残雪『黄泥街』試論」を併録。
絶望の青春──ジャック・ロンドン自伝的物語 20世紀初めのアメリカ西海岸オークランド。労働者地区で生まれ育った若者マーティン・イーデンは、船乗りとなり荒っぽい生活を送っていたが、裕福な中産階級の女性ルースに出会い、その美しさと知性に惹かれるとともに文学への関心に目覚める。生活をあらため、図書館で多くの本を読んで教養を身につけ、文法を学んだマーティンは作家を志し、海上での体験談、小説や詩、評論を次々に書いて新聞や雑誌に送るが一向に売れず、彼が人生の真実をとらえたと思った作品はルースにも理解されない。生活は困窮し、絶望にかられ文学を諦めかけたとき、彼の運命は一転する。 密漁者、船乗り、放浪者などを経て作家に転身、『野性の呼び声』で世界的名声を獲得したジャック・ロンドンが、自らの体験をもとに書き上げた自伝的小説。理想と現実のはざまで闘い続ける創作者の孤独な栄光と悲劇を圧倒的な熱量で描いたこの作品は、多くの作家や芸術家に影響を与え、読者の心を揺さぶり続けてきた。20世紀初頭アメリカの階級社会の中で、独学で自己向上を目指す主人公の苦闘は、苛酷な格差社会の入口に立つ現代の若い読者にも切実に受け止められるだろう。
孤独死事件を台湾の異才が小説化! 本書は、2013年に起こった「大阪市母子餓死事件」が素材になっている。当時マンションの一室で28歳の母親と3歳の息子が餓死状態で発見された。母子の孤独死は、無縁社会を象徴する事件として台湾でも大きく報じられ、衝撃を受けた著者は、舞台を台湾に置き換えて、本書を書き上げた。 主人公の美君は、6歳の娘と暮らす30代の平凡な女性。あるとき、夫から暴力を受け、家を出る。近所に引っ越し、夫からの連絡をひそかに待ちながら、夫や元彼、職場、結婚・出産時のことなど、過去を様々に思い返す。一方で、夫、元彼、娘、親、弟、同僚、友人の独白からは、まったく異なる美君の姿が浮かび上がってくる。すれ違う意識と嚙みあわない現実。些細なきっかけから美君は周囲との関係を断っていき、しだいに自らを追い込んでいく……。 他者からどう見られるかを常に意識して行動し、自分が選ばれるべき人間だと自負する美君。ネットやSNSが浸透し、容易に他人と深く関われる社会のなかで、なぜ母子は孤独死するに至ったのか。誰にでも起こりうる震撼の事件の全貌を独白体によって鮮烈に描き出し、現代の日常が孕む闇を射抜く傑作長篇。 小山田浩子氏推薦!
兄の人生から浮かび上がる戦争と家族の物語 ナチズムに疑いをもつことなく戦地に赴き、19歳で命を落とした兄。弟である著者が、残された日記や手紙から兄の人生を再構成しながら、「戦争」とは何か、「家族」とは何かを問いかける意欲作。 16歳年上の兄はヒトラーユーゲントの教育に染まり、武装親衛隊の「髑髏師団」に入隊、ウクライナで戦死した。戦後民主主義の教育を受けて育った第一世代である著者は、兄の遺した日記や手紙を読みながら、戦争の記憶をほとんどもたない自身の半生、両親や姉の人生を振り返る。そしてナチズムと国家による暴力、戦時下の小市民の生活について、短いテクストの集積で語りつつ、読む者に深い問いを投げかける。 わずかな手がかりをもとに、亡き兄の人生について考察する本書の書きぶりは、小説というよりも自伝、あるいはノンフィクションの手触りに近い。身近でありながらほとんど知ることのなかった肉親への情、戦争に向き合おうとすることの困難、葛藤が随所に表われ、日本の読者にも考えさせられるところが大きい。 著者は1940年生まれ。2003年に出版した自伝的な本書は、ドイツにおける記憶の文化とナチスについて社会的な議論を巻き起こした。
傑作小説の評伝 1862年4月4日に発売されるや、翌日午後にはパリで第1部上下巻6000部が完売。第2・3部の発売日には朝6時に早くも出版社の前の通りは人であふれ、行列の整理のために警察官が出動する騒ぎに。そして『レ・ミゼラブル』は世界各地でベストセラーとなる。本書はその執筆・出版の過程を縦糸に、小説の背景となる世界経済やユゴーの用いた技巧の考察から、翻訳のいきさつや意外な読まれ方、ミュージカル・映画などの受容までを横糸に織り上げた、いわば「小説の評伝」である。 この作品の背後には多くのものが隠れている。たとえば、マドレーヌ氏ことジャン・ヴァルジャンが模造黒ガラス玉でたちまち莫大な財産を手にした事情は、当時の世界史から推測できる。刊行当時、新聞にはこの作品に対して手厳しい批評がいくつも掲載されたが、マドレーヌ氏が財産を築いた方法にけちをつけたものはひとつもなかった。また、当時のパリの地理と作品中の地理との比較からはユゴーの政治的な心情が、ジャン・ヴァルジャンの囚人番号からは苦悩が透けて見える……。 おなじみの物語の違った顔が楽しめる一冊。
匠の技巧が発揮された傑作短篇集 「猫と鼠」猫が鼠を台所で追いかけている。鼠はフロアランプを避けるべく二つに分裂し、猫は壁に激突、アコーディオンのように体がひだひだに折りたたまれ、そこから音楽が流れでる。猫は鼠との追いかけっこ、知恵比べで絶対に勝てないと分かっていながら、鼠を捕まえたい欲求がつのるばかり……鼠が赤いハンカチで猫の体を拭きとり、鼠も自らを拭きとりはじめ……。 アニメ『トムとジェリー』の楽しいドタバタを想起させるが、こうしてミルハウザーの手にかかると、息もつかせぬ速い展開と、細部にわたる滑稽かつ残酷な描写に翻弄されてしまう。とうていありえない状況にもかかわらず、「ミルハウザーの世界」に一気に読者を引き込む描写は、さらに凄みを増している。 ほかにも、周囲から無視しつづけられた少女の体が文字通り消える「屋根裏部屋」、バベルの塔をめぐるパロディ「塔」、森の向こうにある町への憧憬「もうひとつの町」、エジソンの助手による偽の日記「ウェストオレンジの魔術師」など。「オープニング漫画」、「消滅芸」、「ありえない建築」、「異端の歴史」の4部構成で、13篇を収録。
台湾の鬼才が紡ぐ、人生を癒す終活小説 大河巨篇『鬼殺し』で好評を博した、台湾の若手実力派作家、甘耀明の最新作。台中を舞台に、身寄りのない老人など社会的弱者に着目し、主な登場人物は全員女性という新境地となる長篇小説である。 主人公の「私」は、大規模な幼稚園に勤める二十代の女性保育士。ある年の夏、十数年音信不通だった祖母が、私に会いにやってきた。末期の肺がんに冒された祖母は、気がかりだった孫娘に、死ぬ前に会う責任があると思い、自らが営む小型の共同ホームの老女たち五名と老犬一匹と共に私の家に姿を現した。ちょうどその時、私は自宅で幼稚園の園長の息子にレイプされ、祖母は唯一の目撃者となる。私の心は傷つき、園長の息子を告訴し、幼稚園を退職、祖母を含めた共同ホームの老女たちと行動を共にするようになる。祖母の終活に寄り添いながらひと夏を過ごした私は自己回復していく……。 女性問題、独居老人、同性愛など、現代の台湾社会が抱える問題を捉えつつ、著者のまなざしは、社会的弱者の心を温めて“生”をいろどる“記憶”に注がれる。それが厳しい現実を生き抜く支えになるというメッセージをユーモア溢れるタッチで描いた傑作。解説・高樹のぶ子
ブッカー賞受賞作品 1943年、タスマニア出身のドリゴは、オーストラリア軍の軍医として太平洋戦争に従軍するが、日本軍の捕虜となり、タイとビルマを結ぶ「泰緬鉄道」(「死の鉄路」)建設の過酷な重労働につく。そこへ一通の手紙が届き、すべてが変わってしまう……。 本書は、ドリゴの戦前・戦中・戦後の生涯を中心に、俳句を吟じ斬首する日本人将校たち、泥の海を這う骨と皮ばかりのオーストラリア人捕虜たち、戦争で人生の歯車を狂わされた者たち……かれらの生き様を鮮烈に描き、2014年度ブッカー賞を受賞した長篇だ。 作家は、「泰緬鉄道」から生還した父親の捕虜経験を題材にして、12年の歳月をかけて書き上げたという。東西の詩人の言葉を刻みながら、人間性の複雑さ、戦争や世界の多層性を織り上げていく。時と場所を交差させ、登場人物の心情を丹念にたどり、読者の胸に強く迫ってくる。 「戦争小説の最高傑作。コーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』以来、こんなに心揺さぶられた作品はない」(『ワシントン・ポスト』)と、世界の主要メディアも「傑作のなかの傑作」と激賞している。
金原瑞人氏推薦! 移民文学のバイブル 「いつか、本と紙をバッグにつめよう。いつか、マンゴー通りにさよならをいおう。わたしはあんまり強すぎるから、永久にここに留まらせておくことはできないよ。いつか、わたしは出ていくからね」(本書より) アメリカンドリームを求めて、プエルトリコやメキシコから渡ってきた移民が集まる街に引っ越してきた少女エスペランサ。英語とスペイン語文化が入り混じるなかで育ち、思春期にさしかかった彼女の目を通して、街の人たちのさまざまな夢、日常の喜びと悲しみ、声にならない声を、みずみずしい感性ですくいあげた44の掌篇。 米国の移民社会をリアルに描いた本書は世界各国で翻訳され、年代を超え、世界中で読み継がれている。現在の日本で改めて読まれるべき名作。解説・温又柔
ペンギンの国に託して描く人類の愚行の歴史 高徳の聖者マエールは悪魔に唆されて極地の島に向かい、間違ってペンギンに洗礼を施してしまう。天上では神が会議を開き対応を協議、ペンギンたちを人間に変身させて神学上の問題を切り抜けることにし、ここにペンギン国の歴史が始まった。裸のペンギン人に着物を着せるという難題に始まり、土地所有と階級の起源、竜退治の物語、聖女伝説、王政の開始、ルネサンス、革命と共和国宣言、英雄トランコの登場、国内を二分した冤罪事件と続くペンギン国の年代記は、フランスの歴史のパロディであり、古代から現代に至る人類社会の愚行が巧みなユーモアで戯画的に語り直される。ペンギン人の富裕層が主張するトリクルダウン理論への諷刺や、近未来の新格差社会の光景は、21世紀の日本に生きる我々にも痛切に響くだろう。ノーベル賞作家A・フランスの知られざる名作。
ユーモアと奇想に満ちた中短篇集 暴力と抑圧がはびこる架空の街区を舞台に、現代シリア文学の重鎮が描く短篇集と中篇の二作を収録。 『酸っぱいブドウ』 「短剣に斃る」──強欲で乱暴で慎みを欠き、くせ者揃いの住民で知られるクワイク街区。そこに暮らす片耳の男ヒドゥル・アッルーンは、自分の伴侶のように大事にしていた短剣を警察に没収されてしまう。 「隘路の外衣」──クワイク街区を抜けて近道しようとしたムフスィン・ファーイルは、黒い外衣をまとった女に道を訊かれる。知らないと答えると、突然その女の兄を名乗る男が現われ、因縁をつけられる。 「ハッラーウの末路」──床屋のサイード・ハッラーウは店を閉め、謎の黄色い錠剤を売っている。錠剤には魔法のような効能があり、街区に住む男たちは次々と中毒に陥るが、その成分や製造方法は誰にもわからない。 「八時」──ハナーン・ムルキーは一時間刻みで約束をこなす。正午には公園、一時にはある家、二時にはカフェ、三時には映画館、五時には婦人服店、六時にはレストランへ……多忙な娘が八時に帰宅するまでの半日を追う。 『はりねずみ』 両親と兄と暮らす六歳の「僕」。シリアの子どもの殺伐とした日常を、コミカルかつシニカルに語る。
世界的な台湾女性作家の傑作短篇集 李昂(リー・アン)は、女性の内面や性、社会の伝統との葛藤をテーマに創作を続けている、台湾で最も著名な女性作家である。英・仏・独・蘭・伊・韓・スウェーデン語など、世界各国で作品が翻訳刊行され、注目を集めている。 本書は、デビュー当時から翻訳を手掛ける藤井省三氏が、1970年〜2000年代に書かれた作品から八篇を独自に選んだオリジナル短篇小説集である。初期の抒情性に溢れた作品、実験的な心理小説、そして中期を代表する二・二八事件の後日談としての政治とセックスの物語、最近作からは、台湾の歴史を描く幽霊物語と政治的グルメ小説を収録した。 都市化の波に取り残された港町に生きる女性、結婚後の夫との関係に悩む妻、幽霊となって故郷を見守る先住民の女性など、女性の視点から台湾の近代化と社会の問題を描く。李昂の豊饒な文学世界を堪能できる一冊。 「母、娘、妻、花嫁、老婆、若い女、死んだ女、鬼になった女、いまここを生きている女。--時を超えて響きあう彼女たちの声に圧倒された」--中島京子氏推薦!
新訳サキ短篇集の決定版、全4巻完結 森の中でヴァン・チールは裸で岩の上に寝そべる若者に出会った。浅黒い肌に獣のような目をしたこの野生児は「子どもの肉にありついてから二ヶ月はたつ」と不気味なことを言うのだった……異色の人狼譚「ゲイブリエルーアーネスト」。戦地の一杯飲み屋で隣り合わせた男は、交配によって四角い卵を産む雌鶏をつくりだし、一儲けしたというのだが……戦地の描写に作者自身の体験が窺える「四角い卵」他、全36篇。軽妙にして辛辣、奇想とウィットに富んだ短篇の魅力を生き生きとした訳文で甦らせた新訳サキ短篇集第4弾は、初期作品集『ロシアのレジナルド』、没後に編まれた『四角い卵』に、その後新聞等から発掘された短篇、スケッチを収録。サキの生涯と作品を概観したJ・W・ランバートの重要エッセー「ボドリー・ヘッド版サキ選集 序文」を付す。挿絵エドワード・ゴーリー。
〈英連邦作家賞〉受賞作 第一楽章「人生」 21世紀初め、ブルガリアの首都ソフィアのうらぶれたアパートの一室に暮らす100歳近い盲目の老人ウルリッヒ。貧しく、身寄りもない彼は、記憶を探り、ほぼ1世紀にわたる自らの人生を辿り直して日々を過ごしている。 第二楽章「白昼夢」ブルガリアの地方の町に生まれた少年ボリス。幼くして両親を失うが、音楽の才能に恵まれ、天才的なジプシーの音楽家からヴァイオリンを習う。ある日、ひょんなことからニューヨークのやり手の音楽プロデューサーに見出される。 グルジアの首都トビリシで生まれた姉弟、ハトゥナとイラクリ。共産主義が崩壊し、家族は没落の一途を辿るが、二人はアメリカに渡り、力を合わせて生きていく。 「第一部が記憶を繋ぎ止めようとしているとすれば、第二部は逆に、記憶がすべてではないと言っているかのようだ。(中略)この『ソロ』という作品は、ひとりの老人が自らの人生と折り合いをつけるための壮大な試みだったのである。」(「訳者あとがき」より) 「並外れた、驚くべき摩訶不思議な小説」とサルマン・ラシュディが絶賛した本書は、2010年度英連邦作家賞を受賞した。気鋭のインド系英国人作家による、18か国で翻訳された傑作長篇!
ユルスナール没後30年記念 ユルスナール(1903-87)が「自作」と認めた最初の作品である『アレクシス』と、36歳のときに刊行された『とどめの一撃』。作家が『ハドリアヌス帝の回想』で世界的な名声を得る以前の、初期の代表作2篇をセレクトした。 ボヘミアの若い音楽家であるアレクシスが、「せめて自分自身の道徳には悖らぬよう」生きるべく、妻モニックのもとを去るために書き残した手紙の形をとった『アレクシス』。ユルスナールはこの中篇について後年のインタビューで、リルケの強い影響のもとで書かれたと語っている。いっぽうの『とどめの一撃』は、ロシア革命と大戦によって孤立したバルト海沿岸の片田舎を舞台に、三つ子のような三者による愛の悲劇を描いたものだが、実際に起こった出来事に着想を得たという。 物語はいずれも主人公の声で語られるが、その「意志的に抑制した語調とほとんど抽象的な文体」は微妙なほのめかしに満ちており、須賀敦子氏はこれを『ユルスナールの靴』のなかで、「木陰のような、深い陰翳の気配がある」と評した。 ユルスナール・セレクション3に収められた堀江敏幸氏のエッセイを巻末に再録。略年譜付き。
現実か、悪夢か。現実性と非現実性が交錯する14の物語。イラクにはびこる不条理な暴力を、亡命イラク人作家が冷徹かつ幻想的に描き出す。現代アラブ文学の新鋭が放つ鮮烈な短篇集。PEN翻訳文学賞、英国インディペンデント紙外国文学賞受賞。既刊2冊から14篇を選んでアメリカで出版された英訳版からの翻訳。
饒舌に隠された沈黙の謎 死の床で神父の脳裏に去来する青春の日々、文学の師との出会い、動乱の祖国チリ、軍政下の記憶……作家の死の3年前に刊行された、後期を代表する中篇小説。 語り手はチリ人の神父セバスティアン・ウルティア=ラクロワ。カトリックの一派オプス・デイに属し、詩人で文芸評論家でもある神父は、信仰心に篤く、心穏やかな日々を送っていた。ある日、突然「老いた若者」がやってきて、サンティアゴの家のドアをノックするまでは…… 「老いた若者」はウルティア=ラクロワにしか見えない存在らしく、かつての神父の「沈黙」を盛んに責め立て、罵倒する。ウルティア=ラクロワは自らの言葉にも、沈黙にも責任があると応じ、残された力を振り絞って必死の弁明を試みる。 熱に浮かされた神父の、ときに幻覚も入り交じる独白を通じて、祖国チリが辿った苦難の歴史が浮かび上がる。実在した文芸評論家に想を得た人物フェアウェル、ノーベル賞詩人パブロ・ネルーダらが登場、クーデターを率いた独裁者ピノチェト将軍と対面する戦慄の場面もあり、二度と戻ることのなかった祖国チリに寄せる作家のアンビバレントな思いが読者の胸に突き刺さる。
『小説の技巧』の作家の本領発揮、初の短篇集 本書は、英国の大御所デイヴィッド・ロッジが30歳から80歳までに書いた、8つの短篇を収めた自身初の短篇集。作風はブラック・コメディ、セックス・コメディ、意外な結末のロアルド・ダール風など、バラエティに富み、まさに『小説の技巧』の作家の本領発揮、コミック・ノヴェルの名手が満を持して放つ、粒ぞろいの1冊。 「起きようとしない男」──しがない勤め人のジョージは、人生になんの楽しみも見いだせず、ある冬の夜、ベッドから出ることを拒否する。やがてそのことが知れ渡り、テレビ取材で事の経緯を話したおかげで、洪水のように手紙が届き、幸福な充実感を覚える。しかし彼は死の願望にとりつかれ、天井に天使と聖人がいて、空中浮揚できるのではないかと妄想する。昇天しようと、夜具を投げ捨てるが、寒さに襲われるだけで、床から毛布を取り上げる力もない。妻とナースを弱々しく呼ぶが……。 他に「けち」「わたしの初仕事」「気候が蒸し暑いところ」「オテル・デ・ブーブズ」「田園交響曲」「記憶に残る結婚式」「わたしの死んだ女房」を収録。作家による「まえがき」「あとがき」、半世紀の作家活動を紹介する「訳者あとがき」も収録。
「エロスは黒い神なのです」 「この書物は闘牛の一種と思っていただきたい」。満潮によって閉ざされた城ガムユーシュに招かれた語り手が、イギリス人の謎めいた主人モンキュらとともに繰り広げる美しくもおぞましい性の饗宴。 「この破廉恥な姿態はどこから見ても申し分なく破廉恥で、私たちの目には裸体以上に(あるいは裸体以下に)みだらなものだった。五匹の蛸が彼女の身体にへばりついたまま、[……]少女の肉体と軟体動物頭足類とがからみ合っている有様は、一種厳然たる人獣交媾の段階に達していた。おそらく曖昧に崇高とでも呼ぶ以外には呼びようのないものが、そこには見てとれたのだ」。(本文より) 1979年刊の新版に基づく、シュルレアリスム小説の奇書にして名訳。