出版社 : 岩波書店
「モービィ・ディック」と呼ばれる巨大な白い鯨をめぐって繰り広げられる、メルヴィル(一八一九ー一八九一)の最高傑作。海洋冒険小説の枠組みに納まりきらない法外なスケールと独自のスタイルを誇る、象徴性に満ちた「知的ごった煮」。新訳。
故郷への旅の途中で次々と現れる亡霊たち。彼らが呟くのは、半世紀前、朝鮮半島で起きた凄惨な戦争の生々しい姿である。それは南北米中の軍同士の戦いであっただけでなく、村人同士、隣人同士の血で血を洗う殺し合いでもあったーピョンヤン、ニューヨーク、ベルリンで実在の人物に取材し、ソウルの獄中で構想した、衝撃の小説作品。
北陸敦賀の旅の夜、道連れの高野の旅僧が語りだしたのは、飛騨深山中で僧が経験した怪異陰惨な物語だった。自由奔放な幻想の中に唯美ロマンの極致をみごとに描きだした鏡花の最高傑作『高野聖』に、怪談的詩境を織りこんだ名品『眉かくしの霊』をそえておくる。
ヒースクリフと再会した夜、キャサリンは女児を出産、入れ替るように死ぬ。遺された娘もキャサリンと名付けられ、ヒースクリフは着々と両家を手中に収めてゆく…。発表当時から「ページを繰るのももどかしいような面白さ」と評された名作の新訳。
『失われた時を求めて』の冒頭部「コンブレー」を取り上げ、主人公の不眠の夜と作品内部の時間、登場人物たちの形成に至る思いがけないプロセス、相貌を変えてゆく田舎町イリエ、また名高いサンザシの匂いや色彩などのアスペクト精細に読み解く。細部から壮大な全体へと及んでゆく精妙なプルースト的生成を、近年の研究の蓄積を踏まえて鮮やかに開示する。いまプルーストを読む醍醐味をこの一冊に伝える。
作者の故郷イギリス北部ヨークシャー州の荒涼たる自然を背景とした、二つの家族の三代にわたる愛憎の悲劇。主人公ヒースクリフの悪魔的な性格造形が圧倒的な迫力を持つ、ブロンテ姉妹のひとりエミリー(一八一八ー四八)の残した唯一の長篇。新訳。
アイルランド、そしてダブリンに生涯こだわり続けたジョイス(一八八二ー一九四一)。「細心卑小な文体」を用いて、閉塞的なダブリンの市民階層の麻痺的な生態を描いた十五篇。『ユリシーズ』等につながる、ジョイス文学の展開の端緒をなす初期短篇集。
繊細な感覚で日常の美を謳った大正詩壇の鬼才、室生犀星(1889-1962)の自伝的三部作。古都金沢で数奇な星の下に寺の子として育った主人公は、詩への思いやみがたく上京する。詩人志望の青年の鬱屈した日々を彩る少女との交流をみずみずしく描いた表題作の他、『幼年時代』『性に眼覚める頃』を収録。
旧制第一高等学校に入学した川端康成(1899-1972)は、1918(大正7)年秋、初めて伊豆に旅をして、天城峠を越えて下田に向かう旅芸人の一行と道連れになった。ほのかな旅情と青春の哀歓を描いた青春文学の傑作「伊豆の踊子」のほか、祖父の死を記録した「十六歳の日記」など、若き川端の感受性がきらめく青春の叙情六篇。
「最も多く愛する者は、常に敗者であり、常に悩まねばならぬ」-文学、そして芸術への限りないあこがれを抱く一方で、世間と打ち解けている人びとへの羨望を断ち切ることができないトニオ。この作品はマン(1875-1955)の若き日の自画像であり、ほろ苦い味わいを湛えた“青春の書”である。
パリの町で出会った妖精のような若い女・ナジャー彼女とともにすごす驚異の日々のドキュメントが、「真の人生」のありかを垣間見せる。「私は誰か?」の問いにはじまる本書は、シュルレアリスムの生んだ最も重要な、最も美しい作品である。1963年の「著者による全面改訂版」にもとづき、綿密な注解を加えた新訳・決定版。
おい地獄さえぐんだでー函館を出港する漁夫の方言に始まる「蟹工船」。小樽署壁に“日本共産党万歳!”と落書きで終わる「三・一五」。小林多喜二のこれら二作品は、地方性と党派性にもかかわらず思想評価をこえ、プロレタリア文学の古典となった。搾取と労働、組織と個人…歴史は未だ答えず。
“アメリカ的なもの”と“ヨーロッパ的なもの”の対立を扱い、一躍ジェイムズの文名を高めた「デイジー・ミラー」。その解釈をめぐって議論百出の感のある、謎に満ち満ちた幽霊譚「ねじの回転」。“視点人物”を導入した最もポピュラーな中篇二篇を収録。新訳。