著者 : 井上ひさし
浅草六区の映画街で、ストリップ小屋の隣にバラックを建てて住み着いていた廃品回収業のイサム。関東大震災時に頭を打った影響で、言動は少しおかしいが、生真面目な性格から楽屋番のおばさんをはじめ周囲の人からかわいがられていた。毎年春になると、踊子の一人を好きになり、線のつながっていない電話機で電話をかける。やがて妄想の相手と恋人同士になり、熱い日々が続くが、踊子に本当の恋人ができると…。イサムのユーモラスだが悲しい恋を描いた表題作のほか、厳しい刑事とストリッパーのほのかな恋を綴る「入歯の谷に灯ともす頃」、重要文化財の天狗の面を、あらぬことに使ってしまう「天狗の鼻」など、いずれ劣らぬ名調子5篇を収録。
東京・根津の元団扇屋の主人・山中信介は戦時中、無実の罪で特高に捕らえられ、刑務所で終戦を迎えた。久々に自宅に戻ってみると、同居していた5人の女性に加えて2人の娘までも、GHQの将校たちに囲われてしまっていた。さらに、GHQによる「日本語のローマ字化計画」を知った信介は怒り心頭に発し、なんとか阻止しようとするが、逆に捕まってしまって…。「それでも日本人から漢字や假名を取り上げようだなんてあんまりぢゃないかしら」-。家族や家を失い、プライドもズタズタにされた日本人のなかから、七人の名花・東京セブンローズが立ち上がる。第47回菊池寛賞を受賞した名作長編の完結編。
東京の下町で団扇屋を営んでいた山中信介は、戦時中でも体制べったりではない、ちょっと気骨のある一市民。戦火に焼かれて変わりゆく町の姿や、それでもめげずに生きている市井の人たちの様子を、ときにはユーモラスに、ときにはシニカルに日記に記していく。終戦直前、特高警察に捕まった信介が、敗戦で出所してきたところから物語は大きく動き始めるー。「別冊文藝春秋」に足かけ15年間にわたって連載され、第47回菊池寛賞を受賞した名作長編の上巻。あえて旧仮名遣いで書かれているが、読みやすさを損なうことは一切なく、“これぞ井上ひさし”という世界に没頭できる。
年老いた母を種付け馬・花雲の背中に乗せ、嘘を封じる百ヵ所まいりに出た若者。馬の名産地・桜七牧で、真実を述べたばかりに八十八回叩かれた腹いせに、同じ数の嘘をつき生きることを決意、自ら八十八と名乗る。悪代官に野盗の頭目、一癖も二癖もある相手に、嘘つきの天才八十八が言葉巧みに勝負を仕掛ける。恋あり、オゲレツあり、爆笑必至、痛快な男の出世物語。
為永春水、恋川春町、式亭三馬、山東京伝など。どこをとっても個性的な江戸の戯作者たちは、娯楽を求める庶民の熱狂的支持を得、笑いと嘘で社会・文化を支えた。権力におもねることなく物語を書いた戯作者たちと、彼らを取り巻くちょっとハミ出た市井の人々の紡ぎ出すドラマを、史実を踏まえて生き生きと描き出す。江戸の空気感たっぷり、粋な井上節が炸裂、痛快。
寺の境内に身につけているものを投げ込めば、駆け込みは成立するー離婚を望み、寺に駆け込む女たち。夫婦のもめ事を解きほぐすと現れるのは、経済事情、まさかの思惑、そして人情の切なさ、温かさ。鎌倉の四季を背景にふっくらと描かれる、笑いと涙の傑作時代連作集。著者自身による特別講義を巻末収録。
スパイMの奸計により逮捕され共産党から転向した小松修吉は、Mを追って満洲に渡り、終戦後、捕虜となる。昭和21年早春。ハバロフスクの日本新聞社に移送された修吉は、脱走に失敗した軍医の手記を書くよう命じられた。面談した軍医は、レーニンの裏切と革命の堕落を明かす手紙を彼に託した。修吉はこれを切り札にしてたった一人の反乱を始める…。著者の集大成。遺作にして最高傑作。
児童養護施設に入所した中学生の利雄を待っていたのは、同部屋の昌吉の鋭い目だったー辛い境遇から這い上がろうと焦る昌吉が恐ろしい事件を招く表題作ほか、養護施設で暮らす少年の切ない夢と残酷な現実が胸に迫る珠玉の三編。著者の実体験に材をとった、名作の凄みを湛える自伝的小説。
材木問屋の若旦那、栄次郎は、絵草紙の作者になりたいと死ぬほど願うあまり、自ら勘当や手鎖の刑を受け、果ては作りごとの心中を企むが…。ばかばかしいことに命を賭け、茶番によって真実に迫ろうとする、戯作者の業を描いて、ユーモラスな中に凄みの漂う直木賞受賞作。表題作のほか「江戸の夕立ち」を収録。
夏休み。いなかのおばあさんの家ですごす、さゆりと洋介の姉弟には、毎日父からの手紙が届く。そこには、一日一話の小さな「お話」が書かれているのだった。物語を通して生まれる、新しい家族の姿。
「あげな女子と話ができたらなんぼええべねす」…東北一の名門校の落ちこぼれである稔、ユッヘ、デコ、ジャナリの四人組と、東京からの転校生、俊介がまき起こす珍事件の数々。戦後まもない頃、恋に悩み、権力に抗い、伸びやかに芽吹く高校生たちの青春を生き生きと描く。ユーモアと反骨精神に満ちた青春文学の傑作。
敗戦後、信介は恐るべき陰謀を知る。占領軍が「忌むべき過去」を断ち切るべく、日本語のローマ字化を図っているのだ。戦時下の日本人を支えたのは国家ではなく、「国のことば」ではなかったか。未曾有の危機に七人の名花・東京セブンローズが立ち向かう。国敗れて国語あり。末長く読みつがれる名編、堂々の完結。
青年二宮金次郎と“百姓論語”を闘わせ鰹節騒動では危うく情事の罠に。とかく学問より俗事に心奪われる伊能隊、再三の“測量中止”の危機を脱し、有望な孤児や人気女形をお伴に江戸へ。忠敬が“人生二山”を生きた江戸後期の、新しい文化の旗手を多士済々に登場させ、人間忠敬とその時代を縦横に描く大作、完結。
日本全図を作るため1801年4月第2次測量隊は伊豆へ。円周率に憑かれた若者を加え、せこいお上の予算に自腹を切る冒険が始まる。阿波の藍栽培の騒動に首を突込み、十辺舎一九の片棒担いで“飯盛歌舞伎”を作り、はては俳諧師殺しの詮索に夜も日もない。忠敬の一歩は、ああ道草喰いの旅とはなった。
お上の刺客をなんとかかわし、一行は八月霜柱立つニシベツで折り返した。喘息の発作に見舞われながら、息子の一途な恋に心を砕き、はたまた弟子の片思いから母娘の仇討事件に首を突っ込み、“臆病剣”達人の命の洗濯の会を開くなど、奥州百十一次、“全き善人”忠敬の一歩は事件をかい潜りかい潜り江戸へ。全五巻。
1800年6月、忠敬が渡った蝦夷は外にロシア、内に公儀・松前家・アイヌが策略を重ね、だまし合いの地だった。陰謀家の間宮林蔵、変な剣客平山行蔵ら、敵か味方か。アイヌ青年と仲良くなった忠敬に起る、事件につぐ事件、喘息をかこつ忠敬の愚直な一歩は、血みどろ泥まみれの闘いだった。全五巻。